2011年5月28日土曜日

残された時間は、もう、ない。

ボストンから帰国して1か月。
私は、Swartz教授との最後の会話を、反芻し続けていました。

「あなたは、情熱をかけてやろうとしていることがある。
 あなた自身のためにも、あなたの家族のためにも、
  他のことを手掛ける余裕は、あなたに残された時間には、もうないはずだわ」

医療・介護保健政策の研究と、
被災地をモデル地域に医療情報システムを導入するプロジェクト。
ボストンでの2か月間、私の頭と心を占めていたのはこの2つで、
本業のコンサルティング・ビジネスからは、自分の心が大きく離れていたことを、
教授には、しっかりと見抜かれていたようです。

「あなたが今手がけていることは、今しかできない。あなたにしかできないかもしれない。
  それにすべてを賭けてみては、どうかしら?」


先週、震災直後から2か月間間、被災地で働かれていたUNICEFの國井修医師に同行し、
宮城県石巻市と女川町を訪問しました。


瓦礫の除去は進んでいるとは言え、津波の爪痕はまだ生々しく、言葉を失いました。
しかし、避難所で働く保健師など医療者を中心に、
地域の人々の健康を守っていくのだという強い決意と行動力に、胸を打たれました。

5月23日、米国国務省Alumni Engagement Innovation Fundの最終授与先が発表されました。
我らが日本の被災地支援プロジェクトは、最終選考まで残りましたが、あえなく落選。
グルジア、イラクなど、米国の外交上、より緊急性の高い国々が選ばれていました。
しかし、世界中の多くのフルブライト生や大使館関係の方々から、激励の言葉を頂きました。
「今回は残念だったけれど、別のファンディングで、プロジェクトを遂行してほしい」
その重みを、しっかりと受け止めたいと思います。

今回、私たち夫婦は、はじめての子どもの命を失いました。
目の前で肉親が流されていくのを目の当たりにした人々と比べれば、
私たちの痛みは、まだ、小さいのかもしれません。

友人のMは、
「命には、それぞれの役割がある、
  赤ちゃんは、私たち二人で大事なものを気付かせるという役割を果たして、
  天に帰ったのではないかしら」、
と、手紙を書いてくれました。

私たちは、流産、という個人的な経験を通して、
命というひとつの奇跡について、思いを新たにし、
家族の絆を見つめ直すことにしました。
それは、私の仕事のあり方について、見直す契機にもなりました。

経営コンサルティングの職を辞し、
世界銀行の人間開発ネットワークで、医療・介護保険政策の研究を行います。

各分野で活躍されている、ボストンや日本の皆様との出会い、
また、このブログの読者の皆様からのコメントに、
心から感謝したいと思います。

いきること、はたらくこと。
その原点に、ボストンでの2か月は、立ち戻らせてくれました。

この原点からブレずに、行きたいと思います。

自分の情熱のない事柄に構うには、
人生に残された時間は、もう、ない、
のですから。

2011年4月22日金曜日

教授からの贈り物


わたしたちの赤ちゃん、ごめんなさい。

ママは、あなたを引き留めようと必死でしたけれど、だめでした。

冷たい雨が降る夜、ママには、あなたの声が、はっきりと聞こえた気がします。
「ママ、バイバイ。ぼく、行くね」

その日から出血が続き、あなたは天に戻ったのだと、ママは悟りました。


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ボストンに渡航する前夜、妊娠が判明した際、夜遅くではありましたが、両親に電話しました。

私「おめでた、です」
父「誰が?」

不甲斐ない娘が母親になるという事実を、父はとっさに呑み込めなかったようです。

隣の家のネコがおめでたで、こんな時間に電話したりしないでしょ。

私「本当に明日から、アメリカに独りで行って良いものでしょうか」
父「行ってきなさい。でも、ひとつだけ覚悟しておきなさい。
  妊娠5週目だと言ったね。妊娠初期で、流産する確率は15%だ。
  それは、胎児に遺伝子異常に由来することがほとんどだ。
  何か起こっても、決して、自分を責めたりしないように」

牛のように頑丈な私が、流産するはずなんてない。
父の警告を、しかし、愚かな娘は笑って聞き流していました。
後ほど、その一言が、どれだけ救いになるとも知らずに。

しかし、流産したことが判明すると、夜も眠れずに、理由捜しを始めてしまいました。
重い荷物を持ったのが駄目だったのかしら。
零下10度の中を、友達を訪ねて行ったのが良くなかったのかな。
渡米前に、連日、朝2、3時まで仕事を続けていたのも、きっとアウトよね。
主人と離れて、独りでいるストレスが、やはり悪かったのかも。
・・・どう考えても、私が悪いんだわ。

夫にも、八つ当たりしてしまいました。
私「あなたが妊娠すれば良かったのよ。そしたら、わたしがどんな苦しいか、判るのに」
夫「それだけは、できない相談だねぇ・・・」

父からお叱りの電話がかかってきたのは、そんな時でした。

「自分を責めるなと言っただろう。お前やT(夫)が悪いんじゃない。
  妊娠初期の流産は、自然の摂理で起きることなんだ。」

母が電話口に替わりました。

「あなたを授かる1年半前に、ママも流産したのよ。
  流産したすぐ後に、妊娠しようなんて思っても、だめですからね。
  ちゃんと、心と体を整えないといけないわ。
  時期が来たら、ちゃんと、赤ちゃんは来てくれるから」

大きなため息をついて、母は言いました。

「あなたが、どれだけ、待望の赤ちゃんだったか、やっと、判ったでしょ」

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Swartz教授に、流産を告げた際、彼女はがっかりと肩を落としました。大丈夫?

「この研究室でも、いろんなケースがあったわ。
  出産予定日の2週間前に、赤ちゃんの首に紐帯が巻きついて、死産した人もいる。
  再来月に出産するポスドクも、去年、流産したわ。
 でも、みんな、ちゃんとそれぞれのケースを乗り越えて、家庭を築いているから」

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ハーバードでの最終日、Swartz教授のオフィスにお礼に伺いました。
驚いたことに、教授は、プレゼントを用意してくださっていました。

手渡された包みをそっと開けると、中から出てきたのは
Make Way For Ducklings (かもさんおとおり)”の絵本

その扉に、直筆のメッセージがありました。

「トシとナオコの将来の子どもたちへ。
 フランクとキャシーより
 (私たちの子どもも、この本が大好きだったの)」

2011年4月19日火曜日

ボストン・マラソン

今年で115回目を迎えた、ボストン・マラソンの日。

前日に降った雨も上がり、雲に合間から、春の光が注ぎました。
ロングウッドのキャンパスに向かう途中、道はすでにブロックされており、
警備の人も、救護隊の人も、上気した表情で、
今か今かと、ランナーを待ち構えています。

Swartz教授は講義中、
「今年は開始時刻が早くなったから、心臓破りの坂のある家で応援ができないのよね」
とぼやいていました。

街中の人が、世界から集まったランナーを応援するのが、慣習となっているようです。
それは、外国から来た学生や研究者を温かく支える、
この街の人々の気概にも、ぴったりと合っていました。

それまで、マラソンにまったく興味のなかった私も、
野次馬根性で、コンベンション・センターの前まで行ってみることにしました。
道沿いは観客で埋まっています。
開始時刻から5時間を過ぎ、最後に歩こうとしているランナーに向かって、
街の人は、口々に声を掛けます。

「君なら、できる!」
「歩くな、走れ!」
「あの角を曲がったらゴールだよ!」

公立図書館の前に設けられたゴールは、
カウベルの音と歓声で、沸き返り、
ゴールに飛び込んでいくランナーの姿が見えました。

笑顔でゴールする人。
汗だくで、力尽きる人。
呆然と、空を仰ぐ人。

そんなランナーを待ち構えている、家族、友人、恋人…。

前日までは、固くつぼみを閉ざしていたニューベリー街の桜も、
ランナーの熱気にほだされてか、一気に咲きほころんでいました。

下宿屋に戻ると、日本から来て完走したという女性ランナー2人に会いました。

「ボストン・マラソンは、ランナーにとって、聖地のようなものです。
 厳しい資格タイムをクリアし、しかも、
 前回の自分の記録よりも良いタイムでないと、
 出場資格が得られません」

完走した彼女たちの顔には、静かな自信に満ちていました。

今日の大会では、ケニアのランナーが新記録を出したけれども、
ボストン・マラソンのコースは特殊のため、正式な世界記録とはならないのだとも、
教えてくれました。

それでも、ランナーたちは、ゴールに向かって走り続ける。
たとえ、公式記録として後世に残らなくても、
この街を走りぬいたことは、
揺るぎのない記憶として、自分の中に刻み込まれるから。


自分の墓碑銘は <作家、そしてランナー。 少なくとも最後まで歩かなかった> としてほしい
                       ―村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

2011年4月18日月曜日

ひもじかった話

「ひもじかったの。」

そう言うと、夫は大袈裟だと笑うのですが、
その焦がれるような感覚は、子供心に焼き付いています。

キャンベルのスープ缶を見ると、今でも、胃が縮むような気がします。
両親は、どこに行くにしても、キャンベルの缶スープと、それを温める電熱調理器を、
おんぼろの中古車に積んでいました。
外食をする贅沢が許されなかった我が家にとって、
ロールパンと温めたスープが、旅行中の夕食でした。
そして、まだ空腹のまま、1泊38ドル以下のモーテルで、親子4人が丸くなって眠る…。

終戦直後ならともなく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと謳われた1980年代半ば、
私たち一家がひもじかったのには、理由がありました。

27年前、父は、細菌・免疫学の研究者として渡米しました。
楽天家の父は、しかし、奨学金もフェローシップも十分に手当てをしないまま、
つまり、経済的に何の準備をしないまま、家族を連れて、日本を飛び出しました。

折しも、プラザ合意前夜、1ドル260円の時代。
購買力を考えると、日本の国立大学の講師としての収入だけでは、
家族4人の生活が窮することは、自明だった筈です。

貧しい生活の中にあっても、両親は、滞米中、子どもたちに「ホンモノ」を見せようとして、
いろんな街の美術館、博物館やコンサートに連れて行ってくれました。
恐竜の標本や、くるみ割り人形の舞台を見られたのは、確かに嬉しくはあったけれど、
しかし、豚児、という呼称がぴったりの、6歳の私の心に残ったのは、
どうもやりきれない、「ひもじさ」でした。

不憫に思った母方の祖父が、
父には内緒で送金し続けていたと、
母から聞いたのは、つい、最近のことです。

「アメリカに渡ってさえしまえば、何とかなる」という父の甘い希望は、
しかし、アメリカの医学界の熾烈な競争を前に、崩れ去りました。
学界では、感染症の病原体研究はもう時代遅れで、
研究の主流は遺伝子工学に変わっていたことに、
地方の大学にいた父は、気づいていなかったこともあります。
父の研究は、ほとんど評価されないまま、失意のまま帰国しました。

野口英世の伝記は、嘘だった。
父は後年、ぽつりとつぶやいたことがあります。

大学に1年半ほど残った後、
母方の祖父の熱心な勧めに従って、
父は臨床医になることを選びました。
国立循環器病センターでの研修を終えた後、
祖父が経営する病院で勤め、
その跡を継ぐことが期待されていました。

しかし、お人よしの父は、
自分一人でトップに立つことを辞退しました。
母を含め、周囲が反対するのも聞かずに、
女性スキャンダルで勘当されていた叔父を、
聖書の「放蕩息子の帰還」の話よろしく、
わざわざ病院に呼び戻しました。
将来は一緒に、義兄弟で、地域医療を担うことを夢見ていたようです。

祖父が、後継者をきちんと定めないまま死去した際、
その叔父に、父は病院を追われました。

「私は、父のように、負け犬にはならない。
  そして、二度と、ひもじい思いをしない。」

私は、そう信じて、キャリアを積むことを最優先しました。
それが、F医師が言うところの、私の「テーマ」だったのかも、しれません。

父は、仕事がうまくいかなくなるほど、
私と弟の教育に口を出すようになりました。
耐えかねた弟は、家を出ました。
それでも、父は、家庭教師であり、進路指導教官であり続けました。

医学以外の世界について、何の知識もないまま、
私の進路を云々する父に苛ついて、
思わず言い放ったことがあります。

「パパなんて、プロフェッショナルとしては、まるで落第だったじゃない」

父は、顔を歪めました。

「パパは、自分の研究にかまけて、
 お前たちにこれ以上、貧しい生活をおくらせることは、
 親としてのエゴだと思ったんだ。
 豊かでないと、子どもにちゃんとした教育を受けさせるチャンスは低くなるんだと、
 パパはアメリカで実感したんだ。 
 お前たちに良かれと思って、
 恥を忍んでこれまでやってきたのが、お前には判らないのか」

父が泣くところを、その時、私は初めて見ました。

父の人生のテーマは、
研究者として後世に実績を残すことではなく、
子どもの教育に、家庭を守ることに、切り替わっていたんだ。

私は黙って俯くしかありませんでした。

2011年2月。
父が憧れ続けた、ハーバード・メディカル・スクールを前に、
父の泣き顔を思い出していました。


その日の夕方、父が起きる時間を待って、電話を掛けました。

「パパ、本当にごめんなさい。
  前に、あんなにひどいことを言って。
  自分はなんて傲慢だったのだろうと思ったの。

  これまで、自分の努力で、道を拓いてきたと思い込んでいたけれど、
  パパの自己犠牲の上にあってこそだったのだと、気づきました。

  ここまで来ることができたのは、
  パパとママの、お蔭です。」

2011年4月17日日曜日

テーマ

辻井伸行さんのコンサートの帰り、Symphony駅に立つと、見覚えがある顔。
「お久しぶり、Fです」

ハーバード大学医学部・マサチューセッツ総合病院のWellman光医学研究所で、
造血幹細胞の研究をされている、血液内科のF医師。
「高校時代からのマブダチやねん」と言って、Fを紹介してくれたのは、
ビジネス・スクールの受験仲間だったN。
Nと私が、キャリア・フォーラムでボストンに行った際、
Fの家で、Nと3人で夜遅くまで、進路について語り合ったこともありました。
それは、つい一昨日のようでしたが、4年の月日が流れていました。

MGH駅の前を通る度に、Fはどうしていらっしゃるだろう、と考えていましたが、
こんなタイミングで再会するとは。

「さっきのコンサート中、Mama2Bが来てるんじゃないかと思ってたんです。
  いや、嘘じゃなくて、本当にそんな気がしてたんだよ。
  日本に帰る前に、絶対にまた会いましょう」

1週間後の金曜日。
トリニティ教会の前の魚料理屋で席に着くと、
FはAssistant Professorに昇進することを教えてくれました。

それは本当に良かった。
これまでの長い道のりを、頑張って歩いてきた甲斐が、ありましたね。

「自分の仮説は、5年少し前にボストンに来た時から、すでに出来上がっていたのです。
  それを信じてくれない人たちを、実験で証明しながら説得していく、地道なプロセスでした。」

朝焼けは、夜明け前の空が一番美しいように、
研究も、一番面白いのは、仮説を立てるところかもしれない、とFは言いました。
その仮説を立証して過程は、夜が明けた後の空に似て、
もはや、当たり前のことでしかないのだと。

氷の上にオイスターを盛った皿が運ばれてきたとき、
Fは、大きな目をさらに見開いて、訊ねました。
「Mama2Bにとっての、人生のテーマは、何ですか?
  何があなたをそんなに駆り立てているのか」

私は面喰ってしまいました。
これまで、ふわふわとした道のりを歩んできた私に、何か一貫したテーマがあっただろうか?
キャリアでも、研究でも、結婚でも、クラゲのように流されてきただけでは、なかったか。

「Fにとっては、何でしたか?」
そう訊き返すことしかできない、自分を恥じながら。

一瞬考えて、Fはきっぱりと言いました。
「僕は、愛情だと思う」

私は、もう一度、面喰いました。
彼の意味する、愛情、という言葉を掴みかねて。
そして、臆面もなく、愛情、という言葉を使える、Fの純粋さに。
その年甲斐のなさに。

それは、家族に対する愛情ですか、
誰に向けられたものですか。

「命そのものに対する、愛情、だと思うんだよね」

自分たちは、いつかは死ぬけれども、
命のメカニズムを、見つけ出して、それを残すことで、
誰かを愛することになるのだ、とFは言います。

その時、私は、Billy JoelのLullaby、という歌を思い出していました。
7歳の娘に、「人は死んだらどこに行くの?」と訊かれた歌手は、
「人間は死んだら、自分が愛した人の心に残るんだよ」と答えました。

"Someday your child may cry, and if you sing this lullabye
  Then in your heart, there will always be a part of me


  Someday we'll all be gone, but lullabyes go on and on
  They never die, that's how you and I will be"


そして、私に子守唄を歌ってくれたであろう、
25年前、研究者としてのキャリアを捨て、
臨床医として家庭を守ることを選んだ父を、
思い出していました。

2011年4月16日土曜日

辻井伸行さんのコンサート

先週は39度台だった熱も、お陰様で収まってきました。
夕方になると、するすると熱が上昇することもありますが、
そんな時は、早めに自宅に帰って、休むようにしています。

ことり。
と小さな音がしました。
廊下の明かりが、夕闇に沈む寝室に忍び込んでいます。
誰かがドアを開けて、部屋に入って来たようです。
主人は先週、日本に帰ったのにな。

「どなた?」
と聞いても、答えはありません。

怖くなって、起き上がってみると、
「犯人」は、ベッドの足元にいました。


下宿屋の御主人の、ねこ。



先週末、熱が少し落ち着いた日の夕方。
辻井伸行さんのリサイタルに出掛けました。

4年に一度開かれる、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで、
日本人初の優勝という快挙を成し遂げた、全盲のピアニストです。
東京では、辻井さんのコンサート・チケットは即完売となるため、
ずっと聴きに行きたいと思いながら、行く機会がありませんでした。

演奏会の冒頭、辻井さんが挨拶をされました。
「震災で被害に遭われた方々、救助に当たられている方々、
  その人々に援助、それに優しい思いと言葉を寄せてくださっている、
  すべての方々に、この演奏会を捧げます」

その日の曲目は、
●モーツアルト ピアノソナタ 第10番 ハ長調 K.330
●ベートーベン ピアノソナタ 第17番 「テンペスト」
●ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

ニューイングランド音楽院で開かれたリサイタルには、
夜8時という開演時間にもかかわらず、多くの親子連れが来ていました。
チューインガムを子どもに与える親(!)、それを平気で食べている子(!!)もいましたが、
辻井さんの演奏が始まると、就学前の子どもも、食い入るように聴いていました。

「展覧会の絵」の掉尾を飾る『キエフの大門』では、
音の塊が、自分を包んで、圧倒していくのを感じました。
辻井さんの渾身の演奏に、街並みが力強く立ち上がっていく光景が目に浮かぶようでした。

ムソルグスキーが、亡き友人ハルトマンを悼んで作曲した「展覧会の絵」。
その曲に、辻井さんが込めた、鎮魂と復興への想い。
会場はスタンディング・オベーションで応えました。

ブラーボの声がこだまする中、その声がする方向に向かって、丁寧にお辞儀する辻井さん。

明日に向かうエネルギーを分けてくださって、ありがとうございましたと、
辻井さんご本人と、彼の才能を見出し育まれた、お母様のいく子さんに、
楽屋でお礼を申し上げて、会場を後にしました。

その時に、体中に感じていた熱は、
病によるものでは、なかったはずです。

2011年4月15日金曜日

2組の結婚

この春、友人二人が相次いで結婚しました。

一人は、大学のサークルの友人。
根っからの山男。
バードウォッチングのキャンプに行くと、
ビタミン源(山菜等)とタンパク源(魚等々?)は、全員分を現地調達してくれる、
サバイバル力抜群の、逞しいやつです。
彼は、チリのコンセプシオンに駐在していた際、昨年2月のチリ地震に遭いました。
本人は無事でしたが、彼の無事が確認できるまで、血の気が引いたのを思い出します。
今回は東京で震災に遭うとは気の毒でしたが、
震災直後、勤務先の社会奉仕活動で知り合った女性と入籍したとの報告がありました。
彼にお似合いの、意識が高く、アクティブで素敵な奥さまなのだろうな。

もう一人は、日銀時代の同僚。
ご実家は福島県郡山市です。
弟さんが宮城県名取市の避難所にいらっしゃいましたが、無事に自宅に戻られたとの由。
華奢でかわいらしい見た目からは想像がつかない、
しっかり者の彼女を伴侶とされたご主人には、拍手喝采です。
私たち夫婦はもちろん、コワモテで有名だったH元理事も、彼女の大ファンでした。
昨日は彼女の誕生日でしたが、その3日前、11日に入籍されたと聞いて、感無量でした。
2人とも、「こんな時期に…」と結婚を迷われたと仰っていました。
しかし、このような試練の時にこそ、
パートナーと一緒に家庭を築いていく意義は、大きいのではないでしょうか。
災禍の時を乗り越え、それぞれの新生活が、末永く、幸せに満ちたものとなりますように。

ご結婚、おめでとうございます。

2011年4月14日木曜日

子どもを預かる責任

M嬢と初めて会ったのは、もう10年以上前、JPモルガンの内定者会でした。

フィールド・ホッケー選手という快活な爽やかさ、
マリンスタイルも上手に着こなせる抜群のファッション・センス。
しかも、完璧なバイリンガルで、とてもロジカル。
いつも輝くような笑顔を湛えている彼女に、
同期入社組の誰もが、魅了されました。

こんなに聡明で素敵な女性が、世の中にはいるのだと、
同性の私ですら、めまいがするようであったのを、昨日のことのように思い出します。

その後、彼女は幼児教育、私は医療経済研究と、まったく違う道を歩みました。
それでも、今でも一緒に食事をしたり、彼女が私の九州の実家に遊びに来てくれたりと、
家族ぐるみで、お付き合いを続けさせて頂いています。

Mは、モンテッソーリ教育法を学んだりした後、
現在、大手幼児英会話学校の先生として活躍しています。

東日本大震災が発生したとき、彼女は新小岩の教室で、生徒5人にレッスン中でした。

廊下で待機していた保護者がすごい形相で教室に入ってきたそうです。
余震が続く中、Mはまず、パニック一歩手前の保護者と生徒を、地上に誘導しました。
そして、一刻も早く帰宅したい気持ちを抑え、
最後まで教室に残り、お客様対応を手伝い、後片付けを行ったそうです。

しかし当日、JRが終日運転を取りやめ帰宅困難となりました。
残ったスタッフ6名と中学校で一夜を過ごすことに。
毛布を提供してもらったそうですが、大変寒く心細かったとのこと。
翌日のお昼前に帰宅したと聞いて、とても胸が痛みました。

教室はしばらく休講だったものの、翌々週には授業が再開したそうです。
Mから、「子供たちの笑顔に癒されます」とのメールを貰いました。

私のできることは何かと考えたときに、
  いつものように英語レッスンをすることだと思います」
「この地震を通して、改めてレッスン中は生徒さんの命を預かっている責任を感じ、
  また、英語教室に来ると楽しいという雰囲気作りが私の役割だなと感じました」

日々のニュースで敏感になっている子供たちが、
  英語レッスン中は不安も心配も吹き飛んで楽しめるレッスンをするように心がけようと、
  気持ちを新たにしました」

彼女のような、頼もしい先生に、守り、教えてもらう生徒さんたちは、幸せだなぁ。
彼女の思いを、生徒の親御さんたちも、理解して頂けたら、と願います。

M、あなたには、プロフェッショナルとは、大人の責任とは何か、いつも教えて頂いています。
本当にありがとう。

東京に戻ったら、また以前のようにお付き合いくださいね。

2011年4月13日水曜日

国務省プログラムのファイナリストに

海を見下ろす窓を、嵐が容赦なく叩き続けています。

夫「今日は凪だよ、と漁師は笑った」
私「それ、何かの引用?」

嵐ではなくても、船酔いがひどい、それでも海釣りに行きたがる夫の自虐ネタだったらしい。
去年、冬の茨城へ海釣りに行った際など、夫は一日ダウン。
夏の、それこそ凪のような東京湾でも酔って、ひたすら「撒き餌」していましたっけ。

情けない懐かしい情景を思いだして、笑うと、咳込んで、息が苦しくなります。
高熱で、シーツは寝汗でぐっしょりと濡れていました。

夫に助け起こしてもらい、パソコンを持ってきてもらいます。
4月5日、国務省同窓生プログラムのファイナリストが発表されることになっていました。

国務省同窓生公式ウェブサイトに、おそるおそるアクセスしてみました。
すると、先月提出したプロジェクト企画書に「ファイナリスト」のマークが。

世界中のフルブライトの方々が、プロジェクトをサポートしてくれたお蔭でした。

同窓生プロジェクト(Alumni Engagement Innovation Fund)の企画書の受付締切は、
震災が発生して2日後でした。

地震発生直後、急遽、中長期的に必要な医療救護に何が必要か考え、
被災地における医療データベース構築のプロジェクト企画書を書き、
ウェブに登録できたのは、投票締切の6時間前。

6時間という短い時間で、世界中の国務省同窓生の支持票を獲得して、
企画が通るのは、らくだが針の穴を通るくらい、難しいように見えました。
しかし、蓋を開けてみると、グローバル・ヘルスの分野での単一エントリーでは、
世界最多票が集まっていました。
バングラデシュから、コロンビアから、インドネシアから、イスラエルから、
応援のメッセージが入っています。

「日本は、世界中に支えてもらっている」
そう確信した瞬間でした。

結局、熱が下がらず、帰国予定を延期せざるを得ませんでしたが、
帰国を待つ間、企画書を精緻化し、実行準備を進めているところです。

4月18日に、最終ラウンドの投票に向けた、プロジェクトの最終提案書が締め切られます。
大学や職場の多くの方々のご意見を頂きながら、
より良い最終提案書を仕上げたいと思っています。

2011年4月12日火曜日

夫との再会

エイプリル・フール。ボストンは、冗談であってほしいような雪に見舞われました。

翌2日土曜日は一転し、やわらかな春の日差しに包まれました。
出張の合間を縫い、東京からやって来る夫に会うため、NYに向かいます。

バスの最前列に、身を乗り出して座っていたところ、
運転手さんに気持ちが伝わったのか、
猛スピードで飛ばしてくれ、バスは予定よりも45分早く到着。

リンカーン・センターの前まで、地下鉄に飛び乗り、駆け足で行きます。

ホテルのロビーの隅に、見慣れた靴の先が見えた途端、
それまで張りつめていた気持ちが、一気にほぐれていくのを感じました。

本当に来てくれたんだ。

肩に頭を乗せると、いつもの優しい香りと、懐かしいぬくもりがしました。

ホテルに荷物を預け、セントラル・パークに出掛けると、
春の午後を楽しむ家族ずれやカップルでいっぱいでした。
そぞろ歩きながら、それぞれが考えた、子供の名前を挙げていきます。

私「あなたが留学していたストラスブールに流れるライン川、
      フランス語読みにすると、ラン、よね。
      女の子の名前には良いと思うけど、どう?」
夫「Rhinは男性名詞だから、駄目」

日・英・仏・独の文法と語感をクリアしようとすると、
子どもの名前を考えるのは、結構、難しい作業になります。

アッパー・イーストにあるNeue Galerieに向かい、
「ウィーン風」との触れ込みにやたらと弱い夫と、1階のCafe Sabarskyで休憩。
(実際に、「ウィーン」の名に恥じず、チョコレートのケーキが美味です)

クリムトやエゴン・シーレの間にあった、暗い色彩の絵を怖がっていると、
それはシェーンベルクの作品でした。
シェーンベルクは音楽家としては知っていたのですが、
「彼は絵画の教育も受けていたのだよ」と、夫に教えてもらいました。
夫は、いつも、私の知らなかった世界を広げてくれます。

夕刻、JPMorgan時代の元同僚J、
Whartonヘルスケア・プログラム同期のKなどが集まって、
カジュアルなメキシカン・ディナーを一緒にしました。
「お仕事が大変なのに、アメリカまで来て大変ね」と声を掛けられた夫、
「My wife is my most important business(奥さんが一番大事な仕事ですから)」と、
当然のように答えたのには、一同、大爆笑。
さすが、自他ともに認める、「 共済   恐妻組合員」。
模範回答も、板についています。

日曜日は夫の同僚で、私の大学同期でもあるTKと朝食。
コロンビア大学に社費留学中のTKは、
会社の将来、帰国後の仕事について、思いを巡らせているようでした。

その後、レンブラントの特別展を観に、Frick Collectionまで行きました。
「レンブラントがサスキアを描いたように、僕も君の絵を描くことができたら」
と、婚約中に気障なメールを書いたのを、夫は覚えているのかしら。

午後、電車でワシントンDCに向かいます。
動物園の近くのホテルに到着し、荷解きもほどほどに、
Dupont Circleで、Whartonヘルスケアの同級生Jに会いました。
Jは、オバマ大統領のヘルスケア改革立案に携わった後、
現在も、そのフォローアップをしているそうです。
向上心と使命感に溢れているJには、いつも刺激を受けます。

月曜日の朝、
「寝言で『医療改革』って言ってたよ」と夫に告げられ、
恥ずかしい思いをしました。
どんな夢を見ていたのか、さっぱり思い出せませんでしたが。
午前中は、ポトマック河畔の桜を見に行きました。
ジェファソン記念館を向こうに見渡しながら、
タイダル・ベイスンに届かんばかりに、
日本から送られたソメイヨシノが咲き誇っています。


ワシントンの桜に、東京の、そして、被災地の桜を想いながら、
お昼の飛行機で、ワシントンからボストンに戻りました。

夫に会って、そして咲き誇る桜を見て、ほっとしたのでしょう。
なんだかだるい気がします。
花疲れ、という季語を教えてくれた、亡き大伯母を思いながら、床に就きました。

火曜日。
夫に起こされてみると、意識が朦朧としています。

熱を測ってみると、36.7度。
なんだ、平熱じゃない。
その割には熱感がある。
もう一度見てみると、39.7度の間違いでした。

夫に会って、知恵熱でも出たのでしょうか・・・。

2011年3月30日水曜日

各国子育て事情

木の梢に雪が積もっています。
目を凝らすと、それは、ほころび始めた白木蓮の花でした。

ニューヨークに到着する際、春の訪れに触れた瞬間でした。

土・日は、NYを訪れました。
7年前までエコノミストとして勤務していた、
JPモルガンの元同僚との約束があったためです。

日曜日の早朝、270 Park Avenueの本社前で待っていると、
乳母車を引いたRichardがゆっくりと歩いて来ます。
乳母車の中は、去年7月、韓国人の奥さんとの間に生まれた女の子Anaちゃん。
前に「写真を見せてね」と言っていたら、なんと本人を連れて来てくれたのでした。
大きくて賢そうな鳶色の瞳、薔薇色の頬をした美人ちゃんです。
だっこをしても、人見知りすることなく、にこにこしています

「ウィークデーは奥さんにこの子を任せっきりだからね。
 週末は、僕がこの子を連れてオフィスで仕事をしているんだ」
JPモルガンのリスク・マネジメント・チームを率いる、多忙なRichardですが、
育児にきちんとコミットする姿勢に感心しました。

近況報告し、日本経済の見通しについてディスカッションをした後、
Richardから、JPモルガンの日本の震災支援について、話を伺いました。

Richardによると、
JPモルガンのダイモンCEOは、震災1週間後に社員激励のために訪日。
500万ドル(約4億円超)の寄付を発表したそうです。
東京からの撤退を検討する外資系企業も多い中で、
不退転の姿勢を、トップ自らが示したと聞いて、心強く思いました。

JPモルガンと日本との縁は、
実は関東大震災にさかのぼります。
1924年、震災の翌年に、
日本政府が初めて発行した米ドル債であった、
震災復興公債1億5千ドル分を引き受けたのがJPモルガンです
米国の連邦準備制度が整うまでは、
現在のFRBに匹敵するほど強い公的な性格を持っていた
JPモルガンらしいエピソードです。

その後、子どもの教育について話が盛り上がりました。

英国出身のRichard曰く、
米国の初等教育では、基礎学力を磨きにくく、躾が重視されていない。
基礎学力の訓練に重点を置く韓国か英国で、小学校は通わせたい。
ただし、韓国などアジアの国々では、抽象的な概念を取り扱う教育が弱い。
抽象的な概念を取り扱い、解のない問題に取り組む姿勢が、実社会では必要になるが、
この分野に強い米国で、高等教育は受けさせたいとの由。

なるほどなあ。

夜、ボストンのバスターミナルに到着し、
Brooklineの宿舎まで帰る際、
タクシーの運転手さんが、携帯電話で家族に電話しています。
(本当はマサチューセッツ州法で運転中の携帯電話使用は禁止されているのですが…)
時計の針は11時を回っていますが、どうやら子どもと、それも複数の子と話しているようです。

「テレビがついているだろう、消したとお前が言っても、後ろで音が聞こえているぞ」

「2階のXXに代わってくれ…いま1階でテレビがついているかい?」

「XXはテレビがついているといっているぞ。 なんで嘘をつくんだ。
  お前は10時以降はテレビを見ないという約束を破っただけではなくて、
  パパに嘘をついたんだぞ。前にがっかりさせられたよ。
  お前が良い子にしないと、俺はお前にとって良いパパにはなれないよ
  ("If you don't treat yourself well, you cannot expect me to be a good dad")」

「いいか、明日は学校なんだぞ。ママに電話を代わってくれ。
  もう寝なさい、おやすみ」


電話の向こうで、子どもが泣いているのが漏れ聞こえてきます。
黙って耳をそば立てているだけで、この運転手さんの気持ちが伝わってきて、
胸が押しつぶされそうになりました。

「いい父親、母親になるって大変ね」と声をかけると、
運転手さんはため息をつきました。

「そう、生活のために、俺は深夜も働かないといけない。
 いつも子供たちのそばに居たいと思っても、そうはいかないんだ。
 でも、家から離れていても、5人の子供の父親である責任は変わらないからね。」

ハイチから来たという運転手さん。
彼の母国では、去年の地震、そしてその後の混乱と感染症で、30万人が亡くなりました。

「俺の国の人たちは、日本の人たちの気持ちがよく判る。
 どんな大変な時でも、家族を守って、しぶとく生き抜くしかないよ。
 明日はきっと今日よりも良くなると信じよう。」

これまで頂いた励ましの言葉の中で、一番、説得力がありました。

二人の父親に会って、国や環境が変わっても、
子どもの幸せを思う親の気持ちは同じなのだと、
感慨が深かった一日でした。

2011年3月26日土曜日

現場の声をプロジェクト提案に織り込む

日中は研究を進めた後、
夕刻はハーバード・ビジネス・スクールに在籍している、K先生にお会いしました。
K医師もフルブライト生で、国務省に提出したプロジェクト提案にご賛同いただいた一人です。
プロジェクト最終提案の詳細を詰めて行くにあたり、
調査項目や調査実施範囲について、実務面からのアイディアを伺うことができました。

米国のビジネス・スクールの1年目は、想像を絶する忙しい毎日です。
私はストレスから、機能性胃腸障害を起こしたこともあります。
そんな中、貴重な時間を割いて相談に乗っていただき、本当にありがたかったです。

帰宅すると、東京医科歯科大学の医療管理学(MMA)コースの同級生で、
北里大学病院のO先生(ご専門は神経難病)から、メールを頂戴しました。

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地震の直接の被害は建物の損傷など北里大学病院や医学部で軽度ありましたが、
機能停止するような状況ではありませんでした。しかし電力の問題は大きく、多
数かかえていた在宅人工呼吸器療法中のかたがたの安全確保のための対応で次の
1週間は忙殺されました。

同時に被災地の人工呼吸療法の患者さんたちが非常に困ったことになっており、
被災地中核病院のキャパシティーもすぐにいっぱいになるため、そこから広域輸
送で関東や日本海側にヘリで搬送するというシステムの構築(神経学会で受け容
施設リストをつくり、依頼施設からの要望をマッチングするようにし、厚労省、
内閣府、防衛省、自衛隊と交渉し、移送手段を確保する)、私自身も今週は福島
県いわき市(原発の問題がおこっているところです)いわき共立病院にいって、
2日間ヘリがとばず足止めをされた末(その間被災地の診療を手伝ってきました)
人工呼吸器装着患者を自衛隊ヘリで2往復して引き取ってきました。

現地の先生方も文字通り不眠不休で働いている方も多く、今は緊張してできてい
ると思いますが、こんな状態が継続したあとの疲労は大変なものと思います。さ
まざまな支援が必要なのですが、それを現場の方々がコーディネートするのは時
間的にも体力的にも無理です。ボランティアもタダ来られても迷惑になってしま
うとう現実があります。私たちが搬送をした日(亀田総合に8名北里大学東病院
に5名の人工呼吸器装着患者さんを搬送、15分おきにヘリが飛び立つ状況)には
水道が復旧せずギブアップとなった病院から百数十名の患者さんを受け入れる準
備に奔走されていました。

今後ますます慢性期医療、介護も必要となり、現地には「災害医療・介護コー
ディネーター」が必要です。数か月単位で腰を据えて援助する人材がなければ、
現地の疲弊はさけられないと思いました。困っている人がいて、助けたい人がい
て、その間をコーディネートする能力が脆弱なために、うまくいっていないと思
います。

現地に先生方にできるだけ多く、この苦労を発信することを約束してきましたの
で、MMAとは直接関係なくて恐縮ですが書かせていただきました。なにかのこと
で関わることがあれば、気にとめてください。

また、現地ではまだガソリン渋滞がありました。原発の風評被害で物資も思うよ
に届きません。

ひとりひとりができることを少しずつでも行い助け合うことを長期間にわたって
行うことが必要だと思います。

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O先生のご指摘の通り、
被災地には、医療者だけではなく、ロジスティクスをアレンジする、
「災害医療・介護コーディネーター」も必要だということは、
阪神淡路大震災の際にも課題として挙がっていました。
さらに、医療者の自己犠牲に甘えることなく、
システマティックに機能する、持続可能な医療・介護制度が、
今回のような緊急の救護活動だけではなく、
通常の「仕組み」としてが必要だということを再確認しました。

国務省に提案しているプロジェクトが、その一助になってほしいと願うばかりです。

2011年3月25日金曜日

バレエ・ダンサーを通してみる個性と肥満

最近は震災関連の記述が多かったですが、本来の研究も進めています。
今週は台湾について分析しており、
特に日本の介護保険制度に相当する「老人長期照護保険」について調査をしていました。

台湾の人口予測データを見ていると、奇妙なことに気が付きます。
2060年の予測では、新生児の男児の数が女児の数よりも5%も多いのです。
Economist誌が昨年、Gendercideに関する記事を掲載して議論を呼んだのですが、
こんなにもはっきりとデータに出るとは…。
Swartz教授も、「空恐ろしいわね」と眉をひそめました。

昨日の夜は、バレエを学生券(student rush ticket)で見ることができました。
振付師Jorma Eloによるモダンな公演"Elo Experience"の初日に立ち会えました。
こちらのバレエは、全体の統一感は欠けますが、それぞれのダンサーが非常に個性的です。
パンフレットを見ると、皆、ダンサーの出身がウクライナ、バハマから日本まで幅広いです。

躍動する美しい肉体に見入っていたのですが、公演が終わって辺りを見渡すと、
ダンサーの3倍くらいの体積がありそうな人々がいっぱい…。

アメリカの肥満の問題は深刻だと再認識すると同時に、
自分の体重管理もしっかりせねばと肝に銘じた夜でした。

2011年3月24日木曜日

ライシャワー日本研究所で祖父の知人と再会する

事実は小説よりも奇なりと申しますが、
亡くなった祖父の知人、香田洋二氏と、ボストンで12年ぶりにお会いすることになるとは…。

今日は午前中にSwartz教授にデータの分析状況について報告した後、
ライシャワー日本研究所のセミナーに出席しました。
そのパネリストの一人だったのが、
同研究所のシニア・フェローの香田さんです。
元海上自衛隊海将・第36代自衛艦隊司令官でもいらっしゃいます。

セミナーでは、自衛隊と米国海軍の被災者支援活動について、詳細なご報告を頂きました。
あまり報道がされていない分野ですが、地道な活動を続けられていることがわかりました。
(私自身を含め)聴衆は食い入るように、香田さんのプレゼンテーションに聴き入りました。

セミナー終了後、うっすらとした記憶を辿ってご挨拶に伺い、
佐世保でお会いしたことはございませんかと切り出したところ、
祖父とのご縁が明らかになりました。
奥様にもお会いでき、人と人のきずなの大切さについて、思いを新たにしました。

2011年3月23日水曜日

ケネディ・スクールでのセミナー

お昼に医学部図書館主催のメディカル・データベースの講習に参加した後、
ハーバードの政治・行政大学院であるケネディ・スクール(HKS)にて、
昨夕はセミナーに出席しました。

栗原先生(HKSフェロー)
―震災に対する初動は非常にスムーズに行った
―ただし、24時間経過後の混乱が目立った

Dr. Golay(MIT)
―先週のMITのセミナーでもヘッド・スピーカーを務めた
―日本の原発は誘致の難しさを反映して一か所に発電機を集中させる
―カナダで1か所の発電所に8基あるのが最大だが、発電量は日本より少ない
―中国にある1か所を除いて、すべての原発はプラグイン電源を使用している
―今回の福島原発の問題で、原発の設計上の脆弱性が明らかになった
―放射線性セシウムなど放射性物質は半永久的に残る
―Clean upをどうするか、10年以上は時間がかかる、費用も予想を超えて膨大になる
―電力不足への対応は今後の課題
―左派の原発への反発をどうコントロールするかは米国にとっても問題に

土田先生(関西大学)
―文化圏の違い:東北地方は日本の伝統的な農村地域
―東北では外部とのコミュニケーションが寸断、efficacyも低い
―東京では「自分のことは我慢しないといけない」という意識が広まる
―仮説1:日本人の「平等思考」
―仮説2:被災者はまだ現実を受け止める心理的な段階に至っていない
―仮説3:自然との一体感、受け身の考え方
―原発問題に対しては、時計の針は元に戻せない、政府・東電発表を信じるスタンス
―原発問題に対する過剰反応が長期的な経済的被害、差別を生じる
―まだ問題は始まったばかり、今後の影響は深刻

Dr. Herman B. "Dutch " Leonard (HKS&HBS)
―9.11の際は世界中が自分はアメリカ人だと思った、現在は世界の心は日本とともにある
―日本のこれまでの災害に対する備えによって、死傷者は想定よりも少なくて済んだ
―原発の被害は現在のところ、実際はコントロールされている
―中央集権的なシステムは情報集約・対応が困難
―分権化した先decentralized pointでも対応できるのが望ましいが、末端が最も被害を受けている
―greater amount of ingenuityが起こると考えられる
―将来の見通し:非常に長期で我慢強い復興努力が求められる
―"acceptance without defeat"(敗北なき受容)を目指すべき
―今後は分権化した危機対応体制の構築が必要
Q1:東北地方の人々の「疎外感」と、関東・関西地方の反応
A1(土田教授):そもそもの文化が違う、東北の人々の性格は静かでおとなしい

Q2:復興する際の経済成長モデルについての再考、特に首都圏への人口・経済の集中
A2(Dr. Leonard):災害への対応をdecetralizeすることを主眼に置いていたが、経済
21世紀になって死傷者が増えたのは人口が高リスク地域に集中していることが背景にある

Q3:復興への期間と対応
A3(Dr. Leonard):日本は備えがあった、また人々の準備もできている
9.11の後に株式市場の回復には最低30日かかるとみられたが4日で復興

Q4:日本の原発の設計構造に問題があったのでは
A4(Professor Golay):日本の原発はactive safety feature電力を使って資材・物質を動かすことを前提としている。2つ建設中の原発があるが、これから設計の変更が予測されるが、コストとの兼ね合いが問題となる

Q5: 情報のフロー(地方政府、企業、中央政府)
A5(土田先生):地方政府も影響を受けて情報の統制が取れなくなった
(Dr. Golay):情報フロー。東電への怒りには、第三者としては理解に苦しむ
(Dr. Leonard):high level of novelty、
(栗原先生):まだ政府も東電も学習段階にある

尚、このセミナーでは、田村耕太郎 前参議院議員と隣席でした。
田村さんは、本日のライシャワー研究所のセミナーでスピーカーとして参加されます。
財政負担、施策方針についてお話を伺いたいと思っています。

2011年3月22日火曜日

ルームメイトと新学期の大学院へ

ブログの更新が遅れてすみません。
週末の間、外界の情報を一旦遮断し、
自然の中に身を置くことで、心身ともに回復できました。

遠路ワシントンDCとNYから足を運び、
外に連れ出してくれた大学の同級生CとTに感謝です。

日曜日の夜は、東京大学大学院Global Health Leadership Programの同級生、
Mさんと合流できました。
女医で、経営コンサルタントとしてのバックグラウンドがある彼女も、
このプログラムの一環で、HSPHに派遣されます。
同じ部屋をシェアするルームメイトでもあり、大変心強いです。

主人がエジプト出張から戻って来ました。
渡航禁止命令は解除されたとはいうものの、
ジャスミン革命が余波が残る国内の情勢は予断を許しません。
また、隣国リビアの情勢が悪化する中にあって、内心ハラハラし通しでした。

久しぶりに主人の声を聴き、ほっとして、日曜日の夜は泥のように眠ってしまいました。
目が覚めると、日本は春分の日でお休みでしたが、HSPHでは春休み明けの講義初日。
M先生と30分歩いて、本校舎Kresge Buildingまでたどり着くと、
キャンパスは学生の熱気に溢れています。
1年制の大学院生にとっては最後の学期ということもあり、学生は真剣な眼差しです。

午前中、指導教官Swartz教授の「高齢化と医療経済・政策」の講義に出席しました。
高齢化が急速に進む日本が抱える問題を、改めて認識するとともに、
現在進めているプロジェクトの位置づけを再確認することができました。

Swartz教授、実は先週、凍りついた玄関で滑って、左手首を骨折。
ギプスをした痛々しい姿です。
が、本人は「私はOne-handed Economistになりたいと思っていたから、
ちょうど夢が叶ったのね」と、あっけらかんと笑い飛ばしてしまいました。

(『一方では(on the one hand)…、また他方では(on the another hand)」と言辞を弄し、
 経済学者が経済予測・政策についてはっきりしたスタンスを取らないのに対し、
 トルーマン大統領が業を煮やして叫んだセリフが、
 『片腕のエコノミストを連れて来い(Give me a one-handed economist)!』だったという、
 有名なエピソードを踏まえています。
 エコノミスト出身の私にとっても耳が痛ーい言葉です)

難しい問題、困難な状況に直面した際、
それを悲観するのではなく、ユーモアの力も借りて乗り越える強さを、
Swartz教授には学びました。

午後、窓の外を眺めると、雪が降っています。
ボストンの春はまだ遠いようです。

2011年3月19日土曜日

引越し、そして大学の仲間とのプチ同窓会

今日はお引越しです。

3週間住んで、ようやく慣れてきた宿舎を離れます。
学校からは少し離れますが、閑静な住宅街の中にあるB&B(民宿)に移ることになりました。
日本人女性の経営する一軒家で、HSPHの研究者も長期滞在している所です。

大学のゼミの同級生がNYとワシントンDCからボストンを訪れています。
午後からは、市内の喧騒を離れて、
南隣にあるロードアイランド州の海沿いの小さな町Westerlyで、
少しゆっくりと考え事をすることにしました。

いま、夕日が沈んでいきます。
静かな夕暮れです。

2011年3月18日金曜日

ナガサキの医療救護隊にいた祖父を想う

私の祖父は被爆者です。
長崎に原爆が投下された際、海軍鎮守府付の軍医で、
医療救護隊員として、被爆者救護に当たりました。

防護服もないまま、放射線に23日間晒されたため、
祖父は亡くなるまで、後遺症に悩まされました。
しかし、祖父を本当に苦しめたのは、
救えなかった人々に対して申し訳ないという自責の念、
原子野で医療の限界を経験しながら、医療を生業として続ける虚無感でした。

祖父は家族の誰にも、自らの被爆体験について語ることはありませんでした。
あまりに悲惨な体験を思い起こしたくなかったのでしょう。
祖父が沈黙をようやく破ったのは、戦後52年を経て、自らの死期を悟ったときでした。

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1945年8月11日、原爆投下2日後の長崎。

「すべてが死、すべてが壊滅でした」
工場の鉄骨は飴細工のように無残に曲がり、辺り一面は焦土と化していました。
祖父らが持参した医薬品、救護物資は半日で底をつきました。
緊急救護所となった新興善国民学校には、瀕死の患者が押し寄せます。
麻酔も消毒薬もないまま、手術を行わなくてはなりませんでした。
十分な水も確保できず、海水を汲み上げてはドラム缶に入れて煮沸消毒し、
ジョウロに移し替えて、溜まった膿や蛆を洗い流すだけの「治療」。

身元もわからぬまま、次々と息絶えていく人々。
その亡骸を、夜の校庭で井桁に積み上げ、火葬しました。
「今でも、心からあわれに、心から申し訳なく思っています」
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今回の震災でも、
多くの医療者、自衛隊、消防庁、警察、米国海軍・陸軍の方が、
同じような思いで働いていらっしゃるのではと思います。
虚無感と心身の疲労を乗り越え、救護に携わっていらっしゃる、
すべての方々、その自己犠牲に、敬意を表したいと思います。

祖父が初めて医療救護体験を語ってくれて、14年目の月日が流れました。
その間、祖父は亡くなり、命はめぐっていきます。

自らの命を顧みずに被爆者・被曝者救護にあたった、祖父に思いを馳せながら、
自分に何ができるのか、しっかりと考えて参りたいとの思いを新たにしています。

2011年3月17日木曜日

中長期的な医療支援に向けて:米国国務省向け提案書が賛同数世界1位に

米国国務省が募集していたAlumni Engagement Innovation Fundに対し、
日曜日に「中長期的な医療支援、記録とベストプラクティス分析」の提案を行いました。

システムエラーで締切までにアップロードができなかったのですが、
水曜日夜になって、例外的に受理が認められました。

世界中のフルブライト同窓生の人気投票により、
ファイナリスト(ファンドを受けられるプロジェクト最終候補)が選ばれます。
締切6時間前のエントリーだったにもかかわらず、ご賛同いただいた投票数は、
Global Health分野単体でのエントリーで、世界トップとなりました。

直前のご連絡であったにもかかわらず、
ご支援いただきました同窓生の皆様、
本当にありがとうございました。

4月4日にファイナリストが発表になります。
最終結果がどうなるかは未知数ですが、祈るような思いで見守っています。

MITとHSPHのセミナー

MITとHSPH(ハーバード公衆衛生大学院)で、緊急セミナーが開かれました。
それぞれの学校の個性がはっきりと分かれる内容となりました。

昨日のMITのセミナーは原発問題について、
本日のHSPHでのセミナーは、地震・津波・原発問題への主に保健面での対応について。

MITの方が、正確で示唆に富んだ内容を含んでいました。
各分野の専門家が、現状分析と今後の見通しまで、しっかりと行い、
メッセージを発信していました。
また、参加者も200名以上と大規模なセミナーで、
質疑応答の際も、現状をちゃんと理解した学生が的確な質問を行っていました。

本日のHSPHでのセミナーは、
本当に災害救助の専門家と言えるパネリストは3人中1名、Dr. Michael VanRooyenのみ。
参加者は40名に限定されていたにもかかわらず、
質疑応答の際には、頓珍漢な質問が続出。
HSPH側の「品質」管理に疑問符が付く、幻滅させられるセッションでした。

ただ、Dr. Michael VanRooyenの発言で、参考になったことがあります。
「現在、被災地が必要としているのは、専門家。ジェネラリストはいらない。」

私たちは、自分たちの専門性を活かし、どうやって中長期的に支援ができるか、
考えないといけないと思わされるコメントでした。

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帰宅してみると、米国国務省から、メールが届いていました。

「貴殿のプロジェクト申請を受諾しました」

オンライン提出する際、システムエラーでどうやってもアップロードできず、
絶望していたところでした。
システムの問題があったことを伝えたところ、
多くの方々が、国務省に受諾を受け付けるよう、プッシュメールを書いてくださいました。

プロジェクトの支援をしてくださっている、世界中のフルブライト同窓生に感謝です。

ウェブ上にエントリーできて、まだ5時間ですが、
世界中のプロジェクト企画書の中で、現在、9位の賛同数を頂いています。

締切まであと1時間。賛同数が一つでも増えていくのを、
祈るような気持ちで見守っています。

2011年3月16日水曜日

東北大学病院の医師から

以下、東北大学病院の先生からのメールを掲載します。
先生方の献身的な治療行為には頭が下がります。

急性期の救急が不可欠なのは当然ですが、
亜急性、慢性期への対応、感染症への対策が必要になってきています。

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御心配をおかけいたしましたが、幸い、スタッフ全員、無事でおります。

何せ、未曾有の地震で被害も極めて甚大であり、東北大学病院では薬剤の不足、ガスの供給がないために、滅菌などの機器も作動できず、手術なども今後どうするのか、苦慮している状況にあります。そうとはいえ、幸い水や電気がきているので、他の施設や湾岸の皆さま方に比べれば、本当に幸せだと思います。すでに、地域拠点の石巻赤十字病院には現段階でも600名を超える中等度・重症の患者さんが搬送されており、今後、東北大学病院も含め、本格的な災害後医療に取り組む必要が出てきています。

高速道路は緊急車両のみで物流がストップしています。新幹線も高架が破損しているようで復旧には時間がかかりそうです。交通の手段については、相当な日数が制限されると思います。

加えて、先生も御存知のように、教室や多くの診療科がある医学部3号館は古い建物で、余震発生の可能性もあるため、今は立ち入り禁止のため、私どもも含め、多くの診療科の医局が壊滅状態(医局の状態がコンピューターなども含め、いろいろなものが破損している医局が数多くあり、いまだ後片付けもできていない状況)にあります。

そのため、私たちは検査部も含め、被害が比較的少なかった新病院東4階の感染管理室に常時いる状況です。教室では、感染症診療・感染管理についての対応(中長期も含め)を開始することになり、現在、教室のスタッフで、当面、大学での対応(災害時の感染症対策:医療施設・避難施設での指導、職業感染対策:針先しなども含め)のプランニングをしてもらうとともに、県や市とも連絡をとり、感染症対策の対応も協議することになっております。

阪神淡路大震災の際も、避難民の方々が、疲れや体力低下のために肺炎や気管支炎、感冒など呼吸器感染症を起こすことが多く報告されておりますし、津波や洪水の際には外傷に伴う破傷風やレプトスピラなどの感染症、さらに、ハイチでもコレラなどの発生が報告されるなど、肺炎や創部感染症、感染性腸炎など、今後は避難民の健康管理の中でも「感染症」をいかに管理していくかが大きな問題となってくると思われます。

事実、外来の患者さんにも発熱を訴えて来院される患者さんも増えてきており、入院・外来一般患者さんの感染症、避難民の方の感染症対策:抗生物質などの医薬品の不足や、破傷風トキソイド、アルコールなどの消毒剤の不足、水が出ないのでなかなか手洗いができないことやトイレなどの管理など、問題が山積です。

何せ、私たちにとっても初めての経験ですが、全力で対応していくつもりでおりますので、皆さま方のご支援も含め、何卒よろしくお願い申し上げます。

2011年3月15日火曜日

クライシス・マッピング始まる

ボストンで、クライシス・マッピングという取り組みが始まりました。
twitterを通じて災害支援サイトに寄せられる情報を整理し、
「どこで、何が」起きているのか、
「どこで、誰が、何を」必要としているのか、
震災情報レポートに、リアルタイムでマッピングしていくという作業です。

グーグルの東日本大震災サイトにもリンクされており、
信頼性の高いサイトの一つとして認知が広がり始めています。

発起人は、タフツ大学フレッチャー・スクールの学生たちです。
昨年のハイチ大地震の際に、このcrisis mappingを行った、
防衛省、外務省から留学している学生さんたちが、リーダーシップをとっています。
昨日は24時間、シフトを組んで、マッピングのトライアルを行いました。
ボストン在住の日本人学生有志が参加しており、
昨夜は、MITで、crisis mappingへの参加者に向けて、研修がありました。

遠く離れた異国の地にいる、隔靴掻痒のもどかしさもありますが、
ボストンの地で、こちらに蓄積されている知識を活かし、
できることを探っていきたいと考えています。

2011年3月14日月曜日

米国国務省にプロジェクト申請:フルブライト奨学生の結束

今回の地震・津波の影響で、多くの方が被災されています。
震災直後の医療援助が重要なのは言うまでもありませんが、
被災された患者さまには、精神的なケアを含めた、
中長期的な健康管理が必要になって参ります。

どんな形で医療援助を行うのが良いのか、効率的な方法は何か、
様々なエビデンスを集め、今後の災害救助に活かすことはできないかと考えました。

米国国務省がAlumni Engagement Innovation Fundという助成金プロジェクトを募集中で、
この枠組みを利用して、提案書を提出しようとしているところです。
しようとしている、というのは、13日が締切なのに、
国務省のウェブサイトがシステムエラーでアップロードができない!という状況が
既に数時間も続いているためです。
他の方にもアップロードのお手伝いをお願いしているのですが、全員失敗。
どうやら、米国国務省のシステムのシステムエラーらしいです。
大丈夫かな??

この助成金の申請には、
フルブライター(フルブライト奨学生)10名以上の賛同が必要ということで、
ボストン在住の日本人コミュニティを通じて募集をお願いしたところ、
3時間で世界各国の30名近くのフルブライターから賛同を頂きました。
フルブライターの低い出現率を考えると、ものすごい協力体制&結束力に驚いています。

どうか、皆の思いが通じて、申請がちゃんと受理されますように…。

Alumni Engagement Innovation Fund Proposal
Theme: Japan Disaster Relief: Mid-Long Term Medical Support, Recording and Best Practice Analysis
Area: Global Health
Summary: On March 11, 2011, an earthquake of magnitude 9.0 and a subsequent tsunami struck Japan. The death toll is expected to rise to 10,000s. Immediate medical rescue activities are on the way, however, mid-long term medical relief are essential to protect survivors health.

In response to this disaster, students and researchers at the Harvard School of Public Health, University of Tokyo, other universities and medical institutions are gathering to support this initiative. We are looking to initiate a research to track mid-long term medical relief activities and analyze the impact through setting up an electronic medical record system to track victims’ health (including mental health). The research result will be used to extract the best practice of medical support in disaster relief activities, and will be shared with governments, academic institutions and international organizations.

2011年3月13日日曜日

被災支援に向けたHSPHの動き

昨夜、ボストンに戻ってきました。

ハーバード公衆衛生大学院の日本人学生の方々と一緒に、
HSPH Japanese Student Earthquake Reliefに参加させていただくことにしました。
ボストン在住の有志とも連携して行動する予定です。

医師でない私が、実際にできることは限られると思いますが、
情報管理、義捐金募金、プロジェクト・マネジメントなど、
精一杯お手伝いできればと考えています。

2011年3月12日土曜日

お見舞い申し上げます

この度は地震・津波に伴う甚大被害につき、心からお見舞い申し上げます。
大変心配をしております。

試験のため、昨日からフィラデルフィアに来ています。
小学校の同級生夫妻が、夜は駆けつけてくれて、一緒に過ごしてくれました。
こちらが体調を崩し、心細く思っていたときに、
話し相手になってくれて、とても心強く、ありがたかったです。

HSPHのSwartz教授、Wharton Schoolの仲間たちからも、
多くのお見舞いの言葉を寄せていただきました。

主人は、今日も中部国際空港付近に宿泊しています。
明朝、東京に戻る予定だそうです。

余震の影響、特に原子炉の状況が心配です。
どうか皆様もご無事でいらしてください。

2011年3月11日金曜日

地震と安否確認

地震のお見舞い申し上げます。

さきほど、主人と家族全員の無事が確認できました。
お励ましの言葉を下さった皆様、どうもありがとうございます。

主人を乗せた飛行機は、成田空港を避け、中部国際空港に着陸しました。
皆様のご家族、ご友人がご無事でありますよう、お祈り申し上げます。

被災地の様子を見て、言葉を失いました。
取り急ぎ。

2011年3月10日木曜日

小学校の担任の先生に再会する

ボストンに来て一番会いたかった人がいます。
それは、大学の教授でも、ビジネススクール時代の友人でもなく、
小学校1年生の担任だった、B先生です。

5歳の時、父の転勤でフィラデルフィアに来た際、
英語を一言も話せない状態で、地元の公立小学校に放り込まれたのですが、
その時に優しく受け入れてくださったのがB先生でした。

とても熱心な先生で、ABCも知らなかった私に対して、
毎日、放課後に英語の猛特訓を施してくれました。

まずはアルファベット、次に単語のカードを手作りして、少しずつ渡してくださいました。
私が単語を覚えると、一枚一枚に、可愛いシールを貼ってくださいます。
この単語カードは、今も大切に手許に置いている宝物です。

やがて、与えられた単語を使って、簡単な作文をする宿題を頂くようになりましたが、
これには、母と私で、辞書と首っ引きになって格闘したのは、今では良い思い出です。
"gill"(魚のエラ)とか、"sill"(窓の桟)などという単語を初めて見て、
英文科卒の母もウンウン唸らされました。

英語の音とリズムをちゃんと覚えられるように、詩の暗唱をする宿題も頂きました。
子供向けの詩を、自分で朗読してカセット・テープ(時代を感じます)に吹き込んでくださるので、
それを次の日までに3編、暗唱するのです。

クラスでは、各生徒の特長を伸ばすよう、先生は手を差し伸べてくれました。
例えば、社会科見学で、りんごの果樹園に見学に行った際のこと。
りんごがどのようにできるか調べる子もいれば、
りんごがどのように収穫され、保管されて、八百屋さんに届くのか教えてもらう子もいます。
その時のことを、絵に描いて残す子もいれば、作文を書いて残す子もいます。

クラスが完全にバラバラかというと、そうではなくて、
最後に、農家の方から頂戴したりんごを持ち帰り、
クラスでアップル・ソースを作って、みんなで美味しく一緒に頂きました。
りんごの芯をくり抜いたり、火を使ったりするのを、危ない、と言って大人が止めるのではなく、
どうやったら安全にできるかを、授業見学に来たお父さんお母さんに教えてもらいます。

ある日、上級生に、日本人はアメリカの敵だから日本に帰れ!と言われて、
私がショックで泣き出し、学校に行きたくないと言ったことがありました。
折しも1984年、日米経済摩擦で、ジャパン・バッシングの嵐に見舞われていた年です。

B先生は、次の週を、急遽、「日本について学ぶ期間」にしてくださいました。
そして、日本とアメリカが40年前に戦ったことについて話されました。
「アメリカやほかの国々に包囲されたため、
日本には石油がなくなって、戦争をするしかなかった、
日本はアジアの他の国々に攻め入ったのは確かに悪かったけれども、
そう追い込んだアメリカだって悪かったのよ」

先生は、どこで見つけられたのでしょう、小泉八雲の「稲むらの火」のお話を探し出され、
クラスで寸劇をしました。
「日本には、自分のことをなげうって、他の人を助ける、素晴らしい人がいたのです」と言って。

小学校2年生に進学する際、16人のクラスのうち、
1人のクラスメートには小学校1年生を再履修させる、という決断を、B先生は下されました。
その子とその親は、落第したことを、自然なことと受け止めています。
また、その子を、からかったり、見下したりする子どもは、一人もいませんでした。
それがAちゃんにはきっと良いことなの、ゆっくりやれば、きっとできるようになるから頑張れ、
と、クラスメートもその親も、応援するのでした。
このことは、結果平等の国から来た我が家には、大きな驚きでした。

『いま、できないことに目を向けるのではなくて、
  少しでもできるようになったことに目を向けよう。
  ひとつのことを、一人ひとり、違う見方で見るんだ。
  それは、素晴らしいことで、みんな違うところを大事にしないといけない。
  自分には判らないことは、できる人から教えてもらい、
  自分にできることは、みんなで分かち合えば良いんだ』

日々の学習を通じて、B先生には教えて頂いたと思います。

B先生と久しぶりに再会できたのは4年前。
MBA留学のため、4年前にフィラデルフィアに戻った際、母校を訪ねたところ、
B先生はすでに退職されていました。
お会いできなくて、私は大いに落胆いたしました。
ところが、同僚の先生が気の毒に思って、B先生に連絡を取ってくださったお蔭で、
その1か月後、先生と23年ぶりに再会することができました。
卒業前、両親と一緒に、B先生ご夫妻へのお礼の席を設けられたのは、嬉しい思い出です。

今日のランチでは、帰国し、結婚してからの生活について御報告をすることができました。
小柄な先生が、華奢な肩を揺らして笑ってくださると、なんだかとてもホッとしました。

先生は、現在、ボストン市内の貧困地域にある小学校で、ボランティアとして働いています。
学級崩壊している中にあっても、子供一人ひとりが落ち着いて、自分に向き合えるよう、
お手伝いをしている、と聞いて、感銘を受けました。

「モンテッソーリやシュタイナーの教育法について読む機会がありましたが、
  それらが、B先生がクラスで教えてくださった方法と、自然と合致することに気が付きました」
と申し上げました。
すると、「そんな大変なこと、私、考えてみたこともなかったわ」と仰って、
先生はいつものように、クスクスとお笑いになったのでした。

2011年3月9日水曜日

WHOナンバー2は素敵な女性でした

3月8日は「国際女性の日」。 (そんな日があったのだと初めて知った、勉強不足な私…)
制定100周年にあたり、大学が主催したセミナーのメインゲストは、
WHO(国際保健機関)事務次官補で、女性と子供の健康問題に取り組んで来られた、
Dr. Flavia Bustreoでした(公式プロフィール)。

講演のテーマは『21世紀における女性と子供の健康』

2000年に採択された「ミレニアム開発目標」では、
2015年までの努力目標の一つとして、
「乳幼児死亡率の削減」(第4条)、
「妊産婦の健康の改善」(第5条)が掲げられています。
WHOの取り組みと、目標に対する進捗状況についての報告が行われました。

本来は治療可能な状況で、毎日1千人の妊産婦、1万人の乳幼児が命を落としています。

その原因は国ごと、国の中でも社会階級ごとに大きく異なっていますが、
WHOは、、基礎的な周産期医療と教育機会を提供することで、
死亡率を低下させ、母子の健康状態を改善する取り組みを行っています。

Dr.Bustreoが、今後の大きな課題として取り上げたのは、
「働く女性の健康と権利の保護」でした。
特に、
①妊産婦の解雇、
②妊娠中や出産直後に不当な労働状況に置かれる、
③職場復帰後に十分な仕事を与えられない、
という状況を、女性と子供の健康を脅かす問題として提起していました。

これは、日本でも大きな問題です。
産休・育休の取得ができないで仕事を辞めざるを得ない女性。
不当に長い労働時間で、妊娠中・出産後に健康状態が悪化する女性。
そして、悪影響を被る子供と家族。
とても他人事とは思えません。

ところで、Dr. Bustreo、WHOナンバー2ということで、
バリバリのこわーい女医さんを想像していたのですが、
とってもチャーミングで素敵な女性でした。

厳しい質問がフロアから飛んでも、ずっと口角が上がっている。
エレガントだけれど、自分の主張をきっちり通していきます。
イタリア女性の鑑。

セミナーが始まる前に、教授だけではなく、学生とおしゃべりしています。
セミナー終了後、わざわざ歩み寄って話しかけてくれました。
御礼を申し上げて自己紹介したところ、
「WHOでは、医療と経済が判るエコノミストが必要なのよ。
 一緒にこの問題に取り組みましょう」と、
にっこり笑って、握手してくれました。

初対面の人でも魅了し、巻き込んでいくパワーに、完全に脱帽でした。

Dr. Bustreoがセミナーに引用された言葉をご紹介します。
セミナーの司会を務めた、Julio Frenk教授(元メキシコ保健相)への謝辞が込められてもいました。

『子供たちが幼いうちに亡くなり、
 母親たちが新たな命を産み出す際に命を落とすような国では、
 不公平が生まれる』

"In countries where children die early and mothers die in the act of giving life, injustice breeds" (Dr. Julio Frenk)

2011年3月8日火曜日

(図らずながら)胎教事始め

今日は指導教官であるKathy Swartz教授に向けて、
最初の研究経過報告を行いました。
本日のお題は2つ。

①韓国の介護保険制度の設立経緯と概要
②日本における高齢者住宅政策の概要

2点とも、教授が強い興味を持っていたのですが、
英語の文献が極めて限られており、調査支援要請を頂いていたのでした。

先週調査し、週末にざっくりとパワーポイントにまとめていたものを、説明しました。

①韓国の介護保険制度
韓国は介護保険制度を2008年に導入しています。
日本が2000年に導入した制度を参考にしている点が多いため、
大枠は似ているのですが、細かい点で異なります。

a. 介護保険料の支払は20歳以上と、日本よりも負担者層が幅広い
b. 介護保険者が国レベルの保険公団であり、市町村レベルで別れている日本とは異なる
c. 現金給付が、対象者は限定的ではあるが、導入されている

日本がつまずきかけている点から、韓国はちゃんと学んでいるのですね。
台湾、シンガポールについて、今週は調査することになりました。

②高齢者住宅政策

これまでの高優賃、高円賃、バリアフリー化などの政策を整理した後、
住み替えの促進など、資本ストック活用の観点からみた論点の議論。

高齢者だけでなく、多くのステークホルダーにとって、資産の流動化が必要、という結論に。
今週、もう少し議論を深めていくことになりました。

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ところで、今朝、ロングウッドにあるHSPH本舎に登校すると、なんだか様子がおかしい。
月曜日なのに、学生の顔色が悪い。
なんだか殺気立っています。
実は、今週は春休み直前で、中間試験やレポート締切の集中期間。
疲労で体調を崩したのか、咳やくしゃみをする人が増えています。

が、こちらは薬の飲めない妊婦と来ました。
風邪やインフルエンザでもうつされたら大変です。
手洗い、うがい以外には、あとは物理的に自分を隔離するしか、予防手段はありません。

どこであれば安全かつ快適に避難できるか。
キャンパスを見渡すと、徒歩10分ほどの場所に、ボストン美術館があるではありませんか。

美術館のカフェで温かい飲み物を頂きながら、本を読み、論文を書くことにしました。
疲れたら、好きな絵を見に行けます。
館内でクラシックやジャズの生演奏もあり、
実に恵まれた研究&胎教環境です。
しかも、$75払って年会員になると、
1年間入館が無料、かつ館内の飲食が15%割引になります。
学生の入館料は1回$18であることを考えると格安です。

ケンブリッジのオフィスで研究するか、
寒い日や体調がすぐれない日は、美術館に籠るか。
ボストンは、プレママ研究者にやさしい街なのでした。

2011年3月7日月曜日

義母からのメール

妊娠5週目で日本を飛び出してしまった私。
東京で心配しているであろう、義母にメールしました。

「こちらは、Tさん(主人)やお父様、お母様からのお励ましの言葉もあり、
 お蔭様で心穏やかに、ゆっくりと過ごさせていただいています。
 初めて母親になる喜びと、畏れにも似た不安とが混じった気持ちです。
 Tさんも私も、こうやって命を頂き、産んで頂いたのだと思いますと、
 今までと全く違った視線で物事が見えて、物事を感じるようになりました。

 赤ちゃんが無事に産まれてくることを第一に、
 体の健康はもちろん、心も安らかであるように、
 常に気を配りたいと思っています。
 

 こんな大切な時期に、独りで異国の地に飛び出してしまいました。
 いたらない、ふつつかな嫁ですが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。」

義母から、わずかな間があって、返信が来ました。

『ありがとうございますこれれからが大変ですおめでとう風邪ひかないように』


慣れないメールを、一文字一文字、打ってくれたのだと思うと、
ありがたく、また嬉しくて、思わず涙がこぼれました。

この方がお義母さんで、本当に良かった。

2011年3月6日日曜日

プレパパ事始め

第一子の妊娠が判明して、
翌朝に私は研究で米国に、さらに翌週に夫は出張で北アフリカに。

慌てふためく間も、時計の針は着実に進んでいきます。
その間、夫婦を隔てる物理的な距離と時差は開いたまま。


その距離をskypeが埋めてくれます。
先ほど、夫と久しぶりにビデオ電話できました。

私「こんなタイミングでパパになるなんて、あなたもびっくりしたでしょう」
夫「そうでもなかったよ、そうなるといいなと思ってたところだった」

夫は意外と余裕の表情。
パニックになりかけたのは私の方だったようです。

モロッコに出掛ける夫は、週末に読み始め、機内に持ち込む本を見せてくれました。
『パパの極意』『共働き子育て入門』…
「重い本は持っていかないよー」などと言って、のんびりしているように見えて、

ちゃんと考えてくれているんだ。

週末、夫は実家に帰って、
義父母に、住む場所やこれからの過ごし方等について、
いろいろと相談の上、支援要請して来てくれたらしい。
義母も、必要なときにはいつでも手を差し伸べます、と、快諾してくれたとの由。

今週は、出血が止まらなくて、夕方はぐったりと家で休んでいました。
早期流産のリスクも覚悟し、不安になっていたところです。

初めての出産・育児に向けて、
夫も一緒に走り始めてくれていることが、
頼もしく、また、嬉しく感じたのでした。

2011年3月5日土曜日

同期と、留学という選択を振り返る。

2007-2009年に留学した女友達Sさんに久しぶりに会いました。
Sさんは、卒業後、アメリカに残って、ヘルスケア産業の最前線で活躍しています。
ボストン出張の際、声を掛けて頂いたのでした。

二人とも、ヘルスケア分野に興味があり、
彼女はジョーンズ・ホプキンス大学でMPH(公衆衛生修士)を、
私はウォートン・スクールでMBA(経営学修士)を取得。
仕事を辞め、思い切って留学した仲間です。

30歳という、女性にとって人生の岐路とされる年齢を目前に、
留学という大きな決断をしました。
再就職、結婚、出産、その他もろもろに対して、リスクを取ってみたわけですが、
その選択を、卒業後2年弱と日はまだ浅いですが、振り返ってみました。

「留学中の一番の大きな学び」について、意見が一致したのは、
「自分にとって何が大切か、周囲に振り回されずに優先順位をつけられた」という点。

確かに、プロフェッショナル・スクールの中で、「お勉強」として学ぶことはたくさんありました。
しかし、それ以上に、多様な価値観、多様なバックグラウンドを抱える同級生に揉まれる中で、
自分にとって「これが大切」と言える何かを見出せたのは収穫だった、と。
自分にとって、何が重要かはその時々で変わっていくかもしれないけれど、
節目の年齢で、自分の本心に向き合えたのは、
卒業後のキャリアの選択肢が広がる、などということ以上に、重要なことでした。
家族のこと、仕事のこと、ヘルスケア産業のこと、同級生のこと…、話が尽きず、
あっという間の3時間でした。

Sさん、お忙しい中、貴重なお時間をありがとう。
あなたに会って、4年前に留学した時の初心に立ち返ることができました。

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その日、シエラレオネからメールが入りました。
学部時代の友人で、農業開発コンサルタントを経て、現在は地域開発を担当しています。
夏からは世銀リベリア事務所で勤務とのこと。
頑張るなあ。

世界中で活躍している、この仲間たちと歩み続けていこう、との思いを新たにしました。

2011年3月4日金曜日

若手医療政策学者に会ってみる。

贅沢なことに、大学内にオフィスを頂きました。
ハーバード・ヤードの近くにあるフェアバンク・センターの最上階です。
指導教官であるKathy Swartz教授と同じ部屋の一角です。
午後になると温かい早春が入るこのオフィスで、研究に励みます。

Kathyの紹介で、ポスドクの研究者3人に会うことができました。
午後は、そのうちの一人、John Graves氏によるセミナーに同席させて頂きました。
今夏から、医療政策研究センターの創立メンバーとして、
バンダービルト大学の赴任することが決まったそうです。

セミナーのテーマは、「患者保護/支払可能医療法における補助金の最適な設計について」。

患者保護/支払可能医療法(Patient Protection and Affordable Care Act, PPACA)は、
昨年3月、米国で段階的な国民皆保険化を目指すために制定された法律です。

この法律では、民間医療保険の存続を認めつつ、
低所得者が低額保険に手が届くようにするため、
所得水準・家族人数に応じて、連邦政府が補助金の支給をするとしています。

セミナーでは、この法律の下で起きると想起される、
モラルハザードの問題、実際の事務手続き上の困難について論じ、
その解決策について議論されました。

医療政策について論じる際、わが国ではマクロの視点で論じがちですが、
ミクロの主体の視点に立った議論も不可欠だと痛感させられたセミナーでした。

と言いつつ、学部でもビジネススクールでも、
ミクロをしっかり勉強していなかったことを、今更ながら反省…

2011年3月3日木曜日

サマーズ元財務長官に会ってみる。

ハーバード公衆衛生大学院では、政策担当者を招いたセミナーが頻繁に開かれます。

Division of Policy Translation & Leadership Developmentが大物ゲストを招聘、
HSPH卒業生が公共分野でキャリアを積むことを想定し、
在校中に「現場の声」を共有してもらう企画です。

昨日は、Lawrence Summers国家経済会議(NEC)委員長が登場。
そう、サマーズ元財務長官。
クリントン政権下、94年のメキシコ通貨危機を収拾した実績で知られ、
オバマ政権の経済政策ブレーンとしても有名です。

今回のテーマは、『金融危機におけるオバマ大統領のリーダーシップ』。
中身はしっかりと「サマーズ委員長のリーダーシップ」に替わっていたのが、彼らしいところ。

氏はまず、08年のリーマンショックを、
市場のグローバル化がこれまで以上に進展した中で起きた金融危機と特徴づけました。
その中で、政策立案者が「正しい選択をすること」と「国民から愛されること」を両立するのが、
いかに難しいか、そして「正しい選択をすること」がいかに重要だったかについて語りました。

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百年に2~3回起きるような経済危機では、「経済の自動安定化装置」がはたらかない。
市場の不信がさらに不信を呼ぶ、負のスパイラルが加速する。
この中では、市場の信頼を取り戻すのが、もっとも安上がりで、効果的な介入だと考えた。

危機の直後、オバマ大統領に真っ先に進言したのは、
市場の信頼を回復させるためには、
「打つ手が足りない(doing too little)」のは、
「やりすぎる(doing too much)」よりも、ずっと悪いということ。
とにかく大胆な手を、市場に先んじて打っていくことが先決だと伝えた。

当然、モラルハザードの問題が発生する。
特に、自動車産業の救済に際しては、この問題がクローズアップされた。
「国民に愛される」ことも考慮に入れ、
(特にハイイールド債に投資していた)投資家には責任を取ってもらう一方、
政府が自動車産業の再生のために公的資金注入を行った。

このように、危機の際、政策のコストと効果のバランスを見極めて、
迅速に行動することが必要になる。

また、危機の際には、政策をメディアに発信する際、言葉を慎重に選ぶことが肝要となる。
僕のポストには、僕一人しかいない。
ひとたび信頼を失えば、取り返すのは非常に難しい。
誰も替わりはいないのだという緊張感を持って、情報発信しないといけない。
過度に楽観的であっても、過度に悲観的であっても、国民も市場も誤解をする。
尚、08年危機が深刻化した背景には、米国が過去の危機の経験に学ばなかったことがある。
経済史を専攻していた自分の娘に、
1980年代のS&L危機、ラテンアメリカ経済危機について尋ねたところ、
「教科書に載っていない」と言われた。
政策判断には、過去からの教訓を常日頃しっかりと学び、活かすという姿勢が不可欠である。
思考訓練を怠ってきた対価は、果てしなく大きかったと思う。

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傲岸不遜なキャラクターで鳴らしているサマーズ氏ですが、
非常に丁寧に、自分の経験を話してくれました。

最後に、学生との質問応答。

Q1:「政策判断の迅速性と慎重さとどちらを優先すべきですか?」


A1:「常日頃、政策判断をする上で、二つのことを心掛けている。

第一に、元上司であったロバート・ルービン財務長官から学んだ、
『十分に思考を尽くすという習慣』こと。
政策を考える際、その政策を行った場合のリスクと、行わなかった場合のリスクを、
それぞれ考えるようにしている。

第二に、『実行スピードと慎重さのバランス』を重視すること。
○待っていても状況が変わらないのであれば、いますぐ決断する
○待っていられる判断は、すぐには行わなくていい
という姿勢を明確にしている。

’98年の韓国通貨危機の際、3日ほど様子を見たのは、
米国市場は感謝祭の休暇に入っており、考える余裕があったため、
判断の慎重さを優先できたという状況があった。

残り2分となったところで、最後の学生からの質問。複数の手が挙がったが、最前列にいたブロンド美人学生をすかさず指名。サマーズ氏、なかなかお茶目な方。

Q2:「映画『ソーシャルネットワーク』で描かれた自分の姿についてどう思われますか?」

サマーズ氏、目を白黒させています。
会場は爆笑に包まれました。
氏はハーバード学長時代、問題発言で辞任に追い込まれた経緯があります。
映画の中では尊大キャラとして描かれてしまいました。

A2:「えーとね。

あの映画の中のセリフのような発言はしていないし、あんな行動はとっていないと思うけれど。
まあ、僕が、傲慢な学生に対峙しないといけなかった、傲慢な学長だったとしたら、
それはその通りだし、そのように描かれたのは、私の不徳の致すところです。

あはは。」
大きな拍手に包まれて、セミナーは終了しました。 

2011年3月2日水曜日

渡航前夜の出来事

私たち夫婦にとって、初めての新しい命を授かったと判明したのは、
研究のため私が単身で渡米する、まさに前夜のことでした。

医師によると、妊娠初期のフライトは、胎児にも母体にも問題ないとのこと。
夫と、渡航時期の延期または中止も検討しましたが、
国と大学、多くの方々のご支援を頂いた、貴重な研究機会を逃すわけにいかないと、
予定通り、6週間の渡航を決断しました。


夫にとって、妊娠初期の妻を単身渡航させるのは、本当は不安な決断だったと思います。
(自他とも認める『恐妻組合員』としては、羽が伸ばせると思ったかもしれませんが)
しかし、4年前、MBA留学に送り出してくれたのと同じ寛大さで、
「無理のない範囲で、しっかり頑張っておいで」と言って見送ってくれました。

えいやっと、フライトに乗り込んだものの、
急に心細くなって、機内では涙が止まりませんでした。


周りが寝静まった頃、フライトアテンダントの方が、気を遣って、
「左手にオーロラが見えています」と優しく声をかけてくださいました。

窓を開けて覗いてみると、暗闇の中にうっすらと光のカーテンが踊っており、
その向こうには、星々が歌うように輝いています。

私は、初めての子供への手紙をしたためることにしました。

『 私たちの赤ちゃん、
 

世界はこんなに広くて、美しく、不思議なものに満ちています。
一つひとつの発見を、善いものに触れられた喜びを、
これから家族で共に分かち合って行きましょう。

あなたには、生まれる前から、人々の優しい気持ち、世界の美しいものに、
たくさん触れる機会を頂いています。
あなたには、自分が受けたそれらの恵みを、
他の人々にも分かち合える人になってほしいと願っています。


世の中には怒りや哀しみが渦巻き、
心身の飢えや渇き、病い
にさいなやまれる時があるけれど、
 あなたには、自分のそれらを乗り越え、他人のそれらを癒やす人になってほしい。

パパとママは、これまでと同じくらい、いえ、これまで以上に、
お互いを大事に、愛し合っていきます。その結晶があなたなのですから。
そして、あなたが健やかに生まれ育ってくれることを第一に、
これから一緒に歩んでいきます。

あなたに出会えるのが、今から待ち遠しいです。
どうか元気に生まれてきてください。

あなたのことを誰よりも大切に思っている、
パパとママより。』

2011年3月1日火曜日

Day1 @ Harvard

本日から、Harvard School of Public Healthでの研究を開始しました。

Nancy Turnbull副学長、Kathy Swartz教授の下で、医療・介護保険のリスク構造調整と、高齢者住居政策について、これから共同研究を行うことになります。

今回、貴重な研究機会を頂戴できたのは、東京大学大学院 医学系研究科 国際保健政策学教室のお蔭です。同教室が昨年11月から開始した、Global Health Leadership Programに第1期生として参加し、他の博士課程の学生と共に、国際保健政策とリーダーシップについてこれまで学んで参りました。このプログラムの参加学生は、カリキュラムの一環として、WHOなど国際機関やシンクタンク、海外大学院にて、研究/インターンに参加できます。

この貴重な機会は、東京大学の渋谷教授、ハーバード大学の我喜屋教授、東京医科歯科大学の高瀬副学長、科学技術振興機構の皆様をはじめ、多くの方々のご支援を受け、初めて実現できたものです。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。

これから、ボストンでの研究の模様、医療政策関係者との交流、ヘルスケア・ビジネスとの接点について、情報発信をしていく予定です。