そう言うと、夫は大袈裟だと笑うのですが、
その焦がれるような感覚は、子供心に焼き付いています。
キャンベルのスープ缶を見ると、今でも、胃が縮むような気がします。
両親は、どこに行くにしても、キャンベルの缶スープと、それを温める電熱調理器を、
おんぼろの中古車に積んでいました。
外食をする贅沢が許されなかった我が家にとって、
ロールパンと温めたスープが、旅行中の夕食でした。
そして、まだ空腹のまま、1泊38ドル以下のモーテルで、親子4人が丸くなって眠る…。
終戦直後ならともなく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと謳われた1980年代半ば、
私たち一家がひもじかったのには、理由がありました。
27年前、父は、細菌・免疫学の研究者として渡米しました。
楽天家の父は、しかし、奨学金もフェローシップも十分に手当てをしないまま、
つまり、経済的に何の準備をしないまま、家族を連れて、日本を飛び出しました。
折しも、プラザ合意前夜、1ドル260円の時代。
購買力を考えると、日本の国立大学の講師としての収入だけでは、
家族4人の生活が窮することは、自明だった筈です。
貧しい生活の中にあっても、両親は、滞米中、子どもたちに「ホンモノ」を見せようとして、
いろんな街の美術館、博物館やコンサートに連れて行ってくれました。
恐竜の標本や、くるみ割り人形の舞台を見られたのは、確かに嬉しくはあったけれど、
しかし、豚児、という呼称がぴったりの、6歳の私の心に残ったのは、
どうもやりきれない、「ひもじさ」でした。
不憫に思った母方の祖父が、
父には内緒で送金し続けていたと、
母から聞いたのは、つい、最近のことです。
「アメリカに渡ってさえしまえば、何とかなる」という父の甘い希望は、
しかし、アメリカの医学界の熾烈な競争を前に、崩れ去りました。
学界では、感染症の病原体研究はもう時代遅れで、
研究の主流は遺伝子工学に変わっていたことに、
地方の大学にいた父は、気づいていなかったこともあります。
父の研究は、ほとんど評価されないまま、失意のまま帰国しました。
野口英世の伝記は、嘘だった。
父は後年、ぽつりとつぶやいたことがあります。
大学に1年半ほど残った後、
母方の祖父の熱心な勧めに従って、
父は臨床医になることを選びました。
国立循環器病センターでの研修を終えた後、
祖父が経営する病院で勤め、
その跡を継ぐことが期待されていました。
しかし、お人よしの父は、
自分一人でトップに立つことを辞退しました。
母を含め、周囲が反対するのも聞かずに、
女性スキャンダルで勘当されていた叔父を、
聖書の「放蕩息子の帰還」の話よろしく、
わざわざ病院に呼び戻しました。
将来は一緒に、義兄弟で、地域医療を担うことを夢見ていたようです。
祖父が、後継者をきちんと定めないまま死去した際、
その叔父に、父は病院を追われました。
「私は、父のように、負け犬にはならない。
そして、二度と、ひもじい思いをしない。」
私は、そう信じて、キャリアを積むことを最優先しました。
それが、F医師が言うところの、私の「テーマ」だったのかも、しれません。
父は、仕事がうまくいかなくなるほど、
私と弟の教育に口を出すようになりました。
耐えかねた弟は、家を出ました。
それでも、父は、家庭教師であり、進路指導教官であり続けました。
医学以外の世界について、何の知識もないまま、
私の進路を云々する父に苛ついて、
思わず言い放ったことがあります。
「パパなんて、プロフェッショナルとしては、まるで落第だったじゃない」
父は、顔を歪めました。
「パパは、自分の研究にかまけて、
お前たちにこれ以上、貧しい生活をおくらせることは、
親としてのエゴだと思ったんだ。
豊かでないと、子どもにちゃんとした教育を受けさせるチャンスは低くなるんだと、
パパはアメリカで実感したんだ。
お前たちに良かれと思って、
恥を忍んでこれまでやってきたのが、お前には判らないのか」
父が泣くところを、その時、私は初めて見ました。
父の人生のテーマは、
研究者として後世に実績を残すことではなく、
子どもの教育に、家庭を守ることに、切り替わっていたんだ。
私は黙って俯くしかありませんでした。
2011年2月。
父が憧れ続けた、ハーバード・メディカル・スクールを前に、
父の泣き顔を思い出していました。
「パパ、本当にごめんなさい。
前に、あんなにひどいことを言って。
自分はなんて傲慢だったのだろうと思ったの。
これまで、自分の努力で、道を拓いてきたと思い込んでいたけれど、
パパの自己犠牲の上にあってこそだったのだと、気づきました。
ここまで来ることができたのは、
パパとママの、お蔭です。」
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