私の祖父は被爆者です。
長崎に原爆が投下された際、海軍鎮守府付の軍医で、
医療救護隊員として、被爆者救護に当たりました。
防護服もないまま、放射線に23日間晒されたため、
祖父は亡くなるまで、後遺症に悩まされました。
しかし、祖父を本当に苦しめたのは、
救えなかった人々に対して申し訳ないという自責の念、
原子野で医療の限界を経験しながら、医療を生業として続ける虚無感でした。
祖父は家族の誰にも、自らの被爆体験について語ることはありませんでした。
あまりに悲惨な体験を思い起こしたくなかったのでしょう。
祖父が沈黙をようやく破ったのは、戦後52年を経て、自らの死期を悟ったときでした。
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1945年8月11日、原爆投下2日後の長崎。
「すべてが死、すべてが壊滅でした」
工場の鉄骨は飴細工のように無残に曲がり、辺り一面は焦土と化していました。
祖父らが持参した医薬品、救護物資は半日で底をつきました。
緊急救護所となった新興善国民学校には、瀕死の患者が押し寄せます。
麻酔も消毒薬もないまま、手術を行わなくてはなりませんでした。
十分な水も確保できず、海水を汲み上げてはドラム缶に入れて煮沸消毒し、
ジョウロに移し替えて、溜まった膿や蛆を洗い流すだけの「治療」。
身元もわからぬまま、次々と息絶えていく人々。
その亡骸を、夜の校庭で井桁に積み上げ、火葬しました。
「今でも、心からあわれに、心から申し訳なく思っています」
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今回の震災でも、
多くの医療者、自衛隊、消防庁、警察、米国海軍・陸軍の方が、
同じような思いで働いていらっしゃるのではと思います。
虚無感と心身の疲労を乗り越え、救護に携わっていらっしゃる、
すべての方々、その自己犠牲に、敬意を表したいと思います。
祖父が初めて医療救護体験を語ってくれて、14年目の月日が流れました。
その間、祖父は亡くなり、命はめぐっていきます。
自らの命を顧みずに被爆者・被曝者救護にあたった、祖父に思いを馳せながら、
自分に何ができるのか、しっかりと考えて参りたいとの思いを新たにしています。
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