2011年5月28日土曜日

残された時間は、もう、ない。

ボストンから帰国して1か月。
私は、Swartz教授との最後の会話を、反芻し続けていました。

「あなたは、情熱をかけてやろうとしていることがある。
 あなた自身のためにも、あなたの家族のためにも、
  他のことを手掛ける余裕は、あなたに残された時間には、もうないはずだわ」

医療・介護保健政策の研究と、
被災地をモデル地域に医療情報システムを導入するプロジェクト。
ボストンでの2か月間、私の頭と心を占めていたのはこの2つで、
本業のコンサルティング・ビジネスからは、自分の心が大きく離れていたことを、
教授には、しっかりと見抜かれていたようです。

「あなたが今手がけていることは、今しかできない。あなたにしかできないかもしれない。
  それにすべてを賭けてみては、どうかしら?」


先週、震災直後から2か月間間、被災地で働かれていたUNICEFの國井修医師に同行し、
宮城県石巻市と女川町を訪問しました。


瓦礫の除去は進んでいるとは言え、津波の爪痕はまだ生々しく、言葉を失いました。
しかし、避難所で働く保健師など医療者を中心に、
地域の人々の健康を守っていくのだという強い決意と行動力に、胸を打たれました。

5月23日、米国国務省Alumni Engagement Innovation Fundの最終授与先が発表されました。
我らが日本の被災地支援プロジェクトは、最終選考まで残りましたが、あえなく落選。
グルジア、イラクなど、米国の外交上、より緊急性の高い国々が選ばれていました。
しかし、世界中の多くのフルブライト生や大使館関係の方々から、激励の言葉を頂きました。
「今回は残念だったけれど、別のファンディングで、プロジェクトを遂行してほしい」
その重みを、しっかりと受け止めたいと思います。

今回、私たち夫婦は、はじめての子どもの命を失いました。
目の前で肉親が流されていくのを目の当たりにした人々と比べれば、
私たちの痛みは、まだ、小さいのかもしれません。

友人のMは、
「命には、それぞれの役割がある、
  赤ちゃんは、私たち二人で大事なものを気付かせるという役割を果たして、
  天に帰ったのではないかしら」、
と、手紙を書いてくれました。

私たちは、流産、という個人的な経験を通して、
命というひとつの奇跡について、思いを新たにし、
家族の絆を見つめ直すことにしました。
それは、私の仕事のあり方について、見直す契機にもなりました。

経営コンサルティングの職を辞し、
世界銀行の人間開発ネットワークで、医療・介護保険政策の研究を行います。

各分野で活躍されている、ボストンや日本の皆様との出会い、
また、このブログの読者の皆様からのコメントに、
心から感謝したいと思います。

いきること、はたらくこと。
その原点に、ボストンでの2か月は、立ち戻らせてくれました。

この原点からブレずに、行きたいと思います。

自分の情熱のない事柄に構うには、
人生に残された時間は、もう、ない、
のですから。

2011年4月22日金曜日

教授からの贈り物


わたしたちの赤ちゃん、ごめんなさい。

ママは、あなたを引き留めようと必死でしたけれど、だめでした。

冷たい雨が降る夜、ママには、あなたの声が、はっきりと聞こえた気がします。
「ママ、バイバイ。ぼく、行くね」

その日から出血が続き、あなたは天に戻ったのだと、ママは悟りました。


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ボストンに渡航する前夜、妊娠が判明した際、夜遅くではありましたが、両親に電話しました。

私「おめでた、です」
父「誰が?」

不甲斐ない娘が母親になるという事実を、父はとっさに呑み込めなかったようです。

隣の家のネコがおめでたで、こんな時間に電話したりしないでしょ。

私「本当に明日から、アメリカに独りで行って良いものでしょうか」
父「行ってきなさい。でも、ひとつだけ覚悟しておきなさい。
  妊娠5週目だと言ったね。妊娠初期で、流産する確率は15%だ。
  それは、胎児に遺伝子異常に由来することがほとんどだ。
  何か起こっても、決して、自分を責めたりしないように」

牛のように頑丈な私が、流産するはずなんてない。
父の警告を、しかし、愚かな娘は笑って聞き流していました。
後ほど、その一言が、どれだけ救いになるとも知らずに。

しかし、流産したことが判明すると、夜も眠れずに、理由捜しを始めてしまいました。
重い荷物を持ったのが駄目だったのかしら。
零下10度の中を、友達を訪ねて行ったのが良くなかったのかな。
渡米前に、連日、朝2、3時まで仕事を続けていたのも、きっとアウトよね。
主人と離れて、独りでいるストレスが、やはり悪かったのかも。
・・・どう考えても、私が悪いんだわ。

夫にも、八つ当たりしてしまいました。
私「あなたが妊娠すれば良かったのよ。そしたら、わたしがどんな苦しいか、判るのに」
夫「それだけは、できない相談だねぇ・・・」

父からお叱りの電話がかかってきたのは、そんな時でした。

「自分を責めるなと言っただろう。お前やT(夫)が悪いんじゃない。
  妊娠初期の流産は、自然の摂理で起きることなんだ。」

母が電話口に替わりました。

「あなたを授かる1年半前に、ママも流産したのよ。
  流産したすぐ後に、妊娠しようなんて思っても、だめですからね。
  ちゃんと、心と体を整えないといけないわ。
  時期が来たら、ちゃんと、赤ちゃんは来てくれるから」

大きなため息をついて、母は言いました。

「あなたが、どれだけ、待望の赤ちゃんだったか、やっと、判ったでしょ」

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Swartz教授に、流産を告げた際、彼女はがっかりと肩を落としました。大丈夫?

「この研究室でも、いろんなケースがあったわ。
  出産予定日の2週間前に、赤ちゃんの首に紐帯が巻きついて、死産した人もいる。
  再来月に出産するポスドクも、去年、流産したわ。
 でも、みんな、ちゃんとそれぞれのケースを乗り越えて、家庭を築いているから」

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ハーバードでの最終日、Swartz教授のオフィスにお礼に伺いました。
驚いたことに、教授は、プレゼントを用意してくださっていました。

手渡された包みをそっと開けると、中から出てきたのは
Make Way For Ducklings (かもさんおとおり)”の絵本

その扉に、直筆のメッセージがありました。

「トシとナオコの将来の子どもたちへ。
 フランクとキャシーより
 (私たちの子どもも、この本が大好きだったの)」

2011年4月19日火曜日

ボストン・マラソン

今年で115回目を迎えた、ボストン・マラソンの日。

前日に降った雨も上がり、雲に合間から、春の光が注ぎました。
ロングウッドのキャンパスに向かう途中、道はすでにブロックされており、
警備の人も、救護隊の人も、上気した表情で、
今か今かと、ランナーを待ち構えています。

Swartz教授は講義中、
「今年は開始時刻が早くなったから、心臓破りの坂のある家で応援ができないのよね」
とぼやいていました。

街中の人が、世界から集まったランナーを応援するのが、慣習となっているようです。
それは、外国から来た学生や研究者を温かく支える、
この街の人々の気概にも、ぴったりと合っていました。

それまで、マラソンにまったく興味のなかった私も、
野次馬根性で、コンベンション・センターの前まで行ってみることにしました。
道沿いは観客で埋まっています。
開始時刻から5時間を過ぎ、最後に歩こうとしているランナーに向かって、
街の人は、口々に声を掛けます。

「君なら、できる!」
「歩くな、走れ!」
「あの角を曲がったらゴールだよ!」

公立図書館の前に設けられたゴールは、
カウベルの音と歓声で、沸き返り、
ゴールに飛び込んでいくランナーの姿が見えました。

笑顔でゴールする人。
汗だくで、力尽きる人。
呆然と、空を仰ぐ人。

そんなランナーを待ち構えている、家族、友人、恋人…。

前日までは、固くつぼみを閉ざしていたニューベリー街の桜も、
ランナーの熱気にほだされてか、一気に咲きほころんでいました。

下宿屋に戻ると、日本から来て完走したという女性ランナー2人に会いました。

「ボストン・マラソンは、ランナーにとって、聖地のようなものです。
 厳しい資格タイムをクリアし、しかも、
 前回の自分の記録よりも良いタイムでないと、
 出場資格が得られません」

完走した彼女たちの顔には、静かな自信に満ちていました。

今日の大会では、ケニアのランナーが新記録を出したけれども、
ボストン・マラソンのコースは特殊のため、正式な世界記録とはならないのだとも、
教えてくれました。

それでも、ランナーたちは、ゴールに向かって走り続ける。
たとえ、公式記録として後世に残らなくても、
この街を走りぬいたことは、
揺るぎのない記憶として、自分の中に刻み込まれるから。


自分の墓碑銘は <作家、そしてランナー。 少なくとも最後まで歩かなかった> としてほしい
                       ―村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』

2011年4月18日月曜日

ひもじかった話

「ひもじかったの。」

そう言うと、夫は大袈裟だと笑うのですが、
その焦がれるような感覚は、子供心に焼き付いています。

キャンベルのスープ缶を見ると、今でも、胃が縮むような気がします。
両親は、どこに行くにしても、キャンベルの缶スープと、それを温める電熱調理器を、
おんぼろの中古車に積んでいました。
外食をする贅沢が許されなかった我が家にとって、
ロールパンと温めたスープが、旅行中の夕食でした。
そして、まだ空腹のまま、1泊38ドル以下のモーテルで、親子4人が丸くなって眠る…。

終戦直後ならともなく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと謳われた1980年代半ば、
私たち一家がひもじかったのには、理由がありました。

27年前、父は、細菌・免疫学の研究者として渡米しました。
楽天家の父は、しかし、奨学金もフェローシップも十分に手当てをしないまま、
つまり、経済的に何の準備をしないまま、家族を連れて、日本を飛び出しました。

折しも、プラザ合意前夜、1ドル260円の時代。
購買力を考えると、日本の国立大学の講師としての収入だけでは、
家族4人の生活が窮することは、自明だった筈です。

貧しい生活の中にあっても、両親は、滞米中、子どもたちに「ホンモノ」を見せようとして、
いろんな街の美術館、博物館やコンサートに連れて行ってくれました。
恐竜の標本や、くるみ割り人形の舞台を見られたのは、確かに嬉しくはあったけれど、
しかし、豚児、という呼称がぴったりの、6歳の私の心に残ったのは、
どうもやりきれない、「ひもじさ」でした。

不憫に思った母方の祖父が、
父には内緒で送金し続けていたと、
母から聞いたのは、つい、最近のことです。

「アメリカに渡ってさえしまえば、何とかなる」という父の甘い希望は、
しかし、アメリカの医学界の熾烈な競争を前に、崩れ去りました。
学界では、感染症の病原体研究はもう時代遅れで、
研究の主流は遺伝子工学に変わっていたことに、
地方の大学にいた父は、気づいていなかったこともあります。
父の研究は、ほとんど評価されないまま、失意のまま帰国しました。

野口英世の伝記は、嘘だった。
父は後年、ぽつりとつぶやいたことがあります。

大学に1年半ほど残った後、
母方の祖父の熱心な勧めに従って、
父は臨床医になることを選びました。
国立循環器病センターでの研修を終えた後、
祖父が経営する病院で勤め、
その跡を継ぐことが期待されていました。

しかし、お人よしの父は、
自分一人でトップに立つことを辞退しました。
母を含め、周囲が反対するのも聞かずに、
女性スキャンダルで勘当されていた叔父を、
聖書の「放蕩息子の帰還」の話よろしく、
わざわざ病院に呼び戻しました。
将来は一緒に、義兄弟で、地域医療を担うことを夢見ていたようです。

祖父が、後継者をきちんと定めないまま死去した際、
その叔父に、父は病院を追われました。

「私は、父のように、負け犬にはならない。
  そして、二度と、ひもじい思いをしない。」

私は、そう信じて、キャリアを積むことを最優先しました。
それが、F医師が言うところの、私の「テーマ」だったのかも、しれません。

父は、仕事がうまくいかなくなるほど、
私と弟の教育に口を出すようになりました。
耐えかねた弟は、家を出ました。
それでも、父は、家庭教師であり、進路指導教官であり続けました。

医学以外の世界について、何の知識もないまま、
私の進路を云々する父に苛ついて、
思わず言い放ったことがあります。

「パパなんて、プロフェッショナルとしては、まるで落第だったじゃない」

父は、顔を歪めました。

「パパは、自分の研究にかまけて、
 お前たちにこれ以上、貧しい生活をおくらせることは、
 親としてのエゴだと思ったんだ。
 豊かでないと、子どもにちゃんとした教育を受けさせるチャンスは低くなるんだと、
 パパはアメリカで実感したんだ。 
 お前たちに良かれと思って、
 恥を忍んでこれまでやってきたのが、お前には判らないのか」

父が泣くところを、その時、私は初めて見ました。

父の人生のテーマは、
研究者として後世に実績を残すことではなく、
子どもの教育に、家庭を守ることに、切り替わっていたんだ。

私は黙って俯くしかありませんでした。

2011年2月。
父が憧れ続けた、ハーバード・メディカル・スクールを前に、
父の泣き顔を思い出していました。


その日の夕方、父が起きる時間を待って、電話を掛けました。

「パパ、本当にごめんなさい。
  前に、あんなにひどいことを言って。
  自分はなんて傲慢だったのだろうと思ったの。

  これまで、自分の努力で、道を拓いてきたと思い込んでいたけれど、
  パパの自己犠牲の上にあってこそだったのだと、気づきました。

  ここまで来ることができたのは、
  パパとママの、お蔭です。」

2011年4月17日日曜日

テーマ

辻井伸行さんのコンサートの帰り、Symphony駅に立つと、見覚えがある顔。
「お久しぶり、Fです」

ハーバード大学医学部・マサチューセッツ総合病院のWellman光医学研究所で、
造血幹細胞の研究をされている、血液内科のF医師。
「高校時代からのマブダチやねん」と言って、Fを紹介してくれたのは、
ビジネス・スクールの受験仲間だったN。
Nと私が、キャリア・フォーラムでボストンに行った際、
Fの家で、Nと3人で夜遅くまで、進路について語り合ったこともありました。
それは、つい一昨日のようでしたが、4年の月日が流れていました。

MGH駅の前を通る度に、Fはどうしていらっしゃるだろう、と考えていましたが、
こんなタイミングで再会するとは。

「さっきのコンサート中、Mama2Bが来てるんじゃないかと思ってたんです。
  いや、嘘じゃなくて、本当にそんな気がしてたんだよ。
  日本に帰る前に、絶対にまた会いましょう」

1週間後の金曜日。
トリニティ教会の前の魚料理屋で席に着くと、
FはAssistant Professorに昇進することを教えてくれました。

それは本当に良かった。
これまでの長い道のりを、頑張って歩いてきた甲斐が、ありましたね。

「自分の仮説は、5年少し前にボストンに来た時から、すでに出来上がっていたのです。
  それを信じてくれない人たちを、実験で証明しながら説得していく、地道なプロセスでした。」

朝焼けは、夜明け前の空が一番美しいように、
研究も、一番面白いのは、仮説を立てるところかもしれない、とFは言いました。
その仮説を立証して過程は、夜が明けた後の空に似て、
もはや、当たり前のことでしかないのだと。

氷の上にオイスターを盛った皿が運ばれてきたとき、
Fは、大きな目をさらに見開いて、訊ねました。
「Mama2Bにとっての、人生のテーマは、何ですか?
  何があなたをそんなに駆り立てているのか」

私は面喰ってしまいました。
これまで、ふわふわとした道のりを歩んできた私に、何か一貫したテーマがあっただろうか?
キャリアでも、研究でも、結婚でも、クラゲのように流されてきただけでは、なかったか。

「Fにとっては、何でしたか?」
そう訊き返すことしかできない、自分を恥じながら。

一瞬考えて、Fはきっぱりと言いました。
「僕は、愛情だと思う」

私は、もう一度、面喰いました。
彼の意味する、愛情、という言葉を掴みかねて。
そして、臆面もなく、愛情、という言葉を使える、Fの純粋さに。
その年甲斐のなさに。

それは、家族に対する愛情ですか、
誰に向けられたものですか。

「命そのものに対する、愛情、だと思うんだよね」

自分たちは、いつかは死ぬけれども、
命のメカニズムを、見つけ出して、それを残すことで、
誰かを愛することになるのだ、とFは言います。

その時、私は、Billy JoelのLullaby、という歌を思い出していました。
7歳の娘に、「人は死んだらどこに行くの?」と訊かれた歌手は、
「人間は死んだら、自分が愛した人の心に残るんだよ」と答えました。

"Someday your child may cry, and if you sing this lullabye
  Then in your heart, there will always be a part of me


  Someday we'll all be gone, but lullabyes go on and on
  They never die, that's how you and I will be"


そして、私に子守唄を歌ってくれたであろう、
25年前、研究者としてのキャリアを捨て、
臨床医として家庭を守ることを選んだ父を、
思い出していました。

2011年4月16日土曜日

辻井伸行さんのコンサート

先週は39度台だった熱も、お陰様で収まってきました。
夕方になると、するすると熱が上昇することもありますが、
そんな時は、早めに自宅に帰って、休むようにしています。

ことり。
と小さな音がしました。
廊下の明かりが、夕闇に沈む寝室に忍び込んでいます。
誰かがドアを開けて、部屋に入って来たようです。
主人は先週、日本に帰ったのにな。

「どなた?」
と聞いても、答えはありません。

怖くなって、起き上がってみると、
「犯人」は、ベッドの足元にいました。


下宿屋の御主人の、ねこ。



先週末、熱が少し落ち着いた日の夕方。
辻井伸行さんのリサイタルに出掛けました。

4年に一度開かれる、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで、
日本人初の優勝という快挙を成し遂げた、全盲のピアニストです。
東京では、辻井さんのコンサート・チケットは即完売となるため、
ずっと聴きに行きたいと思いながら、行く機会がありませんでした。

演奏会の冒頭、辻井さんが挨拶をされました。
「震災で被害に遭われた方々、救助に当たられている方々、
  その人々に援助、それに優しい思いと言葉を寄せてくださっている、
  すべての方々に、この演奏会を捧げます」

その日の曲目は、
●モーツアルト ピアノソナタ 第10番 ハ長調 K.330
●ベートーベン ピアノソナタ 第17番 「テンペスト」
●ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」

ニューイングランド音楽院で開かれたリサイタルには、
夜8時という開演時間にもかかわらず、多くの親子連れが来ていました。
チューインガムを子どもに与える親(!)、それを平気で食べている子(!!)もいましたが、
辻井さんの演奏が始まると、就学前の子どもも、食い入るように聴いていました。

「展覧会の絵」の掉尾を飾る『キエフの大門』では、
音の塊が、自分を包んで、圧倒していくのを感じました。
辻井さんの渾身の演奏に、街並みが力強く立ち上がっていく光景が目に浮かぶようでした。

ムソルグスキーが、亡き友人ハルトマンを悼んで作曲した「展覧会の絵」。
その曲に、辻井さんが込めた、鎮魂と復興への想い。
会場はスタンディング・オベーションで応えました。

ブラーボの声がこだまする中、その声がする方向に向かって、丁寧にお辞儀する辻井さん。

明日に向かうエネルギーを分けてくださって、ありがとうございましたと、
辻井さんご本人と、彼の才能を見出し育まれた、お母様のいく子さんに、
楽屋でお礼を申し上げて、会場を後にしました。

その時に、体中に感じていた熱は、
病によるものでは、なかったはずです。

2011年4月15日金曜日

2組の結婚

この春、友人二人が相次いで結婚しました。

一人は、大学のサークルの友人。
根っからの山男。
バードウォッチングのキャンプに行くと、
ビタミン源(山菜等)とタンパク源(魚等々?)は、全員分を現地調達してくれる、
サバイバル力抜群の、逞しいやつです。
彼は、チリのコンセプシオンに駐在していた際、昨年2月のチリ地震に遭いました。
本人は無事でしたが、彼の無事が確認できるまで、血の気が引いたのを思い出します。
今回は東京で震災に遭うとは気の毒でしたが、
震災直後、勤務先の社会奉仕活動で知り合った女性と入籍したとの報告がありました。
彼にお似合いの、意識が高く、アクティブで素敵な奥さまなのだろうな。

もう一人は、日銀時代の同僚。
ご実家は福島県郡山市です。
弟さんが宮城県名取市の避難所にいらっしゃいましたが、無事に自宅に戻られたとの由。
華奢でかわいらしい見た目からは想像がつかない、
しっかり者の彼女を伴侶とされたご主人には、拍手喝采です。
私たち夫婦はもちろん、コワモテで有名だったH元理事も、彼女の大ファンでした。
昨日は彼女の誕生日でしたが、その3日前、11日に入籍されたと聞いて、感無量でした。
2人とも、「こんな時期に…」と結婚を迷われたと仰っていました。
しかし、このような試練の時にこそ、
パートナーと一緒に家庭を築いていく意義は、大きいのではないでしょうか。
災禍の時を乗り越え、それぞれの新生活が、末永く、幸せに満ちたものとなりますように。

ご結婚、おめでとうございます。